一芸は万芸に通ず?(改版)

「一芸は万芸に通ず」とか「一芸に秀でる者は多芸に通ず」なんて格言?をきくと、これといった芸もない便利屋ということもあって、今どき素面で口にすることかねと思ってしまう。
科学知識も工業技術も限られていた時代ならいざ知らず、AIなんてとんでもないものまで出てきた時代に、万芸とか多芸なんてのは、ほとんどの場合、ちょっと気の利いた器用貧乏以外のなにものでもないんじゃないか?話題のAIにしたところで、用途限定のアプリケーションソフトウェアでしかない。AIだ、AIだと騒いでいる人たち、まさかAIが万能だと勘違いしているわけじゃないと思うが、そもそもコンピュータの本質をわかって言ってるのか?と不思議でならない。例えばの話し、巡行ミサイルに搭載されているAIと将棋やチェス用や病理診断用にそれぞれ開発されたAI、そして話題のChatGPTやヘアドライヤのAIが同じAI(ソフトウェア)のはずがないじゃないか。そんなこと高校生でもわかる。その分かるはずのものを、知ってか知らずしてか、わかったような顔をしてAIといっているような気がする。

工作機械の技術屋になりそこなって、制御システムや画像処理……の便利屋にしかなれなかったものが見てきたものは「一芸は万芸に通ず」とは正反対の現実だった。
身近な例をあげれば分かりやすいだろう。写真がフィルムと印画紙で映像情報を記録するものだった時代から、デジタルデータとして記録する時代になった。かつてフィルムや印画紙の特性や性能の向上に一身を捧げてきた技術屋がいた。テレビがアナログデータの送信とブラウン管による映像情報の表示からデジタルデータの処理とLEDや有機ELという半導体や薄膜技術に置き換わったとき、家庭のテレビの要素技術、たとえばチューナや発光画面の開発と性能の向上に一生をかけていた技術者はどうなったか想像してみて欲しい。
コンピュータが電算室に鎮座した電子計算機と言われていた時代から生産現場の一台一台の機械装置に搭載されるようになったとたん、コンピュータによる制御がなければ、機械装置はただの機械的構造物になってしまった。
科学も技術もものすごい勢いで進化し続けている。進化を推し進めてきた科学者も技術者も進化の基盤が従来からのもとのは全く違うものに置き換わると、市場における存在価値がなくなってしまう。
一つの機能、その機能の性能の向上は数え切れない技術者の日々の研鑽から生まれている。どれもこれもが先鋭化した領域の話で、ほとんどの場合汎用性がない。これは、一芸を極めることが、その一芸のよって立つ基盤が変わったら、一芸になんの価値もないということにほかならない。極めた一芸が万芸に通ずる?形而上学の話しではない。科学も技術も職人や職工が担っていた時代ではない。科学技術の世界では一芸に秀でることが、しばし他の可能性を捨てることを意味する。
生物の進化の過程がDNAで分析できるようになった今、かつて頭蓋骨の化石を見比べてああだのこうだのといっていたヒトの進化に関する研究になんの意味があるのか?
学者イヌや技術バカになることを承知で一生をかけることを美化するような言辞は慎まなければならない、と実体験から思っている。一言でいえば、時代が違う。

便利屋稼業で禄を食んできたものには、こっちでまあまあ、あっちでそれなり、深みには欠けるが汎用性のある能力を培ったほうが、なにがどうかわったところで食い逸れないための最善の選択肢にみえる。
一芸を極めようとすれば、その一芸以外の全てから身を引かなければならない。あれこれちょっかいだしていたら、極めらない。「一芸に通じれば、万芸の可能性を失う」のほうが今日の状況を反映しているようにみえる。
2023/12/11 初稿
2024/2/7 改版