後は運を天に任せて

年も押し詰まってもう何日もないのに、今年の年賀状はどうしたものかとぐずぐずしていた。毎日何度も思いだしては、どうしたものかと考えていた。この数年、ペイントソフトの練習もかねて暑中見舞いや年賀状もどきを作ってきたが、どういう訳か今年はのらない。半年に一度しか使わないソフトウエアの使い方なんて覚えちゃいない。そのせいで、たいしたものでもないのに手間だけは一人前にかかる。いつも以上の素材があるのに作業を始めても、すぐ面倒になって放りだした。こんなことじゃと、思い直して始めてを三度繰り返したすえに、止めてしまった。年のせいで根気がなくなったのかもしれない。年が明けて深夜、数少ない知り合いに年賀状なしの新年のご挨拶をメールで送った。文字だけというのも寂しいから、ベランダから撮った富士山の写真を添付した。

昼前に起きだしてお雑煮と好きなものだけを合せたおせちを食べた。正月といってもなにか特別なことがあるわけじゃない。元旦も一年三六五日の一日にすぎない。初詣なんかもう何年もいったことがない。大晦日から参拝客の列ができるお寺の横に住んでいたときですら、ベランダから参拝客をみることはあっても出かけなかった。

もう仕事なんかしちゃいないから、毎日が日曜日のようなもんでメリハリがない。元旦もいつものようにWebで海外のニュースを漁っていた。夜更かししたわけでもないのに、いくらもしないうちに眠くなってしまった。いつでも見たいときに見れるんだから眠い目をこすりながらなんてことはしない。朝だろうが昼だろうがかまいやしない。さっと歯を磨いて、昼寝を決めこんだ。うつらうつらしていたら、ゆったりと揺れ始めた。地震らしい。高層マンションの最上階に近いこともあってか、大きな緩やかな揺れが続いた。東日本大震災のときと似ている。震源地は遠くだろう。この程度の揺れで倒壊するなんてこともないだろうと高を括って寝ていた。

メシの時間だとノックされてダイニングに出て行ったら、震災のニュースがテレビに映っていた。チャンネルを回しても震災のニュースばかりで、どこも正月の特別番組なんかやってない。テレビ局は視聴者の嗜好に合わせた番組づくりだと言うだろうけど、一言言ってやりたくなることがある。正月番組に限ったことではないが、視聴者を手玉にとったようというのか、見下したような、見え透いた雑な作りの番組なんか見たかない。正月番組を見なくてすんだのはいいが、どこもここも震災のニュースで疲れてしまった。きれいな日本の風景でもさらっと流して正月気分ってのはないのかね?と毎年のように思う。

大地震で始まった辰年、今年の辰は墨絵の竜なんかいなと思っていたら、二日には羽田の大惨事。三日には何がと心配していたら、幸いなにもなく四日になってほっとした。ところが昼過ぎに長野県のある街から司法書士を名乗る方から電話がかかってきた。何もなかったと思っていた三日に親戚のおばあちゃんが他界したので、火葬や葬儀の手続きが……という。名前も聞いたことないし、どういう血縁なのかも知らない。
オヤジ(養父)が他界するまで正月の二日には身近の親戚が集まって御馳走を食べていた。十二、三人、みんな親戚として育ってはいたが血が繋がっているのはお袋だけだった。義兄夫婦と子供たち、義従弟夫婦に子供たち、独身の義従弟に小学校に上がるまで育ててくれた祖母(お袋の養母)。十八歳で藤澤になったが、それまでの武井にしたって血は繋がってない。実父も含めて血の繋がっている人たち数人と何度お会いしたことがあるだけで、どんな人たちなのかろくに知らない。
そこに降ってわいたかのような、実父の異母妹の死。遠いどこかよその話のような感じで実感なんかありゃしない。

三日続けて今年はと思っていたら、九日には新潟で大地震。科学的に説明のつくこと以外は思うことはあっても、考えには入れない。それでも三元日も続くと、なんとなく気にはなる。地震対策といっても、保存の効く食料と飲料水、懐中電灯や乾電池にトイレ周り……、まあそれなりにストックはしてある。
東日本大震災のときは京都に出張に行っていて帰れなかった。翌日のんびり新浦安に帰ってきて驚いた。駅の周りは液状化現象も起きてぐちゃぐちゃだった。飛び出したマンホールに崩れた塀。高架の改札から自宅に向かう階段は駅から数十センチ離れていた。海抜五十センチあるかないかの埋立地に建てた高層マンションの一階。非常警報で携帯電話が鳴るたびにドキッとした。もし津波でも来たら多分助からないだろう。水道も電気もガスもない。夜は懐中電灯片手に簡易トイレにという生活なんかしちゃらんない。数日後隣のホテルに避難したが、二日でサービス終了。しょうがないからディズニーランドの近くのホテルに移ったが、そこも二晩しか泊まれない。ええい、面倒だってんで、家族で京都に逃げた。こっちは京都で仕事、家族は京都から奈良への観光旅行。埋立地に懲りて、しっかり地盤のあるところに急遽引っ越した。被災者として雀の涙ほどのご支援を頂戴した。

もし東京で地震があったらと、Web防災地図を見ていった。今住んでるところは岩盤とはいえないが悪くはない。水害の可能性も高くはない。でも、テレビが伝える避難所での生活はと気になって……、改めて東京の下町に避難所なんかあるんか?と思いだした。荒川区の町屋で生まれて育ったが、小学校に上がる前に床下浸水だとは思うが、一度洪水を経験している。
「東京ゼロメートル地帯人口」と入力してググったら下記がでてきた。ちょっと古いデータだが、人口に大きな変動があるとも思えない。
国が2018年に公表した洪水・高潮氾濫の大規模・広域避難に関する資料によると、ゼロメートル地帯が広がる墨田、江東、足立、葛飾、江戸川の5区には15年時点で255万人が暮らしている。 荒川と江戸川の水位が同時に上昇する災害シナリオでは、浸水が想定される区域の住民は236万人に上る。

テレビが伝える避難所での生活には厳しいものがある。でも避難所のないところもある。荒川区や港区、品川区や大田区からも避難しなければならない人びとが出てくるだろうから、水害の難を逃れる人だけでも三百万を超えるんじゃないかと想像している。そんなに多くの人たちを収容できる避難所?避難所どころか冠水していない、空いた土地があるとも思えない。地震が収まって津波が退いても、ゼロメートル地帯は海抜以下だから水は退かない。
そんなところで個人でできる災害対策?どんなものがあるんだろうと思いながら、おつかいでスーパーにいったとき、ことのついでにとトイレットペーパーを二袋抱えて帰ってきた。まあやれることはやっておくにしても、トイレットペーパーを両脇に抱えて、なんて正月だ。

人生なにが大事って代理店の社長と居酒屋で長々と話したことがある。「才能」「能力」「人付き合い」「コネ」「金」「努力」と並べていって、結論は「運」だった。運がよけりゃ後はどうにでもなるけど、悪けりゃ、何をどうしたところでたいしたことにはならない。よくて最悪よりはちょっとましってところまでだろう。

新浦安では朝早くからスーパーの前に以上並んで、1.5リットルのペットボトルを二本下げてを三日ほどやった。一階だったからよかったものの高層階まで階段はきつい。年をとるとペットボトルの水は重すぎる。年の話しになったとき、「そこつ症」と言って家人に直された。それは「骨粗しょう症」のことでしょと。粗骨症だとばかり思っていた。こっちの方が言いやすいし、意味は通るじゃないかと思うのだが、覚え違いの言い訳にしか聞こえないだろう。粗忽者の一年がまた始まった。
一月も半ばを過ぎての新年のご挨拶。出しそびれた証文のようで、なんとも恥ずかしい。
今年も思いついたままの雑文でお騒がせします。ご容赦を。
2024/1/12