忙しいとは心を失うことか

二十歳で工作機械の技術屋を目指して就職したのに七年後には海外技術課課員という便利屋になり果てて、海外から入ってくるクレームの窓口担当として工場中を走り回っていた。誰も日常業務で忙しいから、飛び込みで入ってくるクレームなんかに関わりたくない。設計も電気も品質保証も自分たちの問題じゃないとたらいまわしにされた。そこまでならまだ職務だが、海外関係のあらゆる雑務を押し付けられていた。英文マニュアルの作成からカタログや販売資料、挙句の果てに機械の銘板の翻訳までやらされた。友好都市からの市民団体がくれば、英語だからということで工場見学の案内にかりだされ、旗をもって団体写真の隅に立ったことも一度や二度じゃない。エライさんが海外視察旅行から帰ってきたら、いくらもしないうちに代理店から手紙が届いた。工場には英語のできるヤツがいないという見え透いたウソで翻訳しろと回ってきた。代理店がくれば相手をして、機械の操作やメンテナンスで海外から研修にくれば、にわか教師のようなことまでやっていた。

そんなところにアメリカの電池メーカの香港支社の副社長が、先に研修に送った保守担当三人からの報告を真に受けてか、オレもと研修にやってきた。経営が専門で機械に触るのも初めてという人で技術知識はゼロだったが、好奇心の旺盛な人で何にでも興味津々だった。イギリスの大学に留学までした香港社会のエリートだからだろう、二十代後半で副社長にまで上り詰めていた。機械に触れて制御回路図をみて技術のロジックの部分に感心したのか、経営の仕事がいかに無味乾燥したものかと愚痴っぽい話が飛びだしてきた。大まかにでしかないにしても機械がどうやって動いているのがわかってきたら、日本の日常生活が気になりだした。保守担当者と同じように工場の裏にある独身寮で寝泊まりしていたが、二週目からは毎晩柏駅前に出かけては、ショッピングモールを歩き回ってから夕飯をすませて一杯やっていた。

会社の話しから社会のありようまでだったのが、いくらもしないうちに個人的な話にまで飛んでいった。「女房はテレビ局にいるんだけど、たいしたこともやってないのにオレより給料がいいんだ。何でって思わないか?」「電池屋なんて大量生産で単純な作業の繰り返しだ。来年には三十になるし、もっと面白いところに転職しなきゃって考えてんだけど、フジサワさんはどうなんだ」「おとこの人生は三十からっていうじゃないか。三十までは人生の助走期間みたいなもんで、色々経験して三十からが本番だ……」
似たようなことを二週間も聞かされれば、いくら能天気でも多少は考える。このままいったら便利屋で終わる。来年には三十になる。石の上にも三年って言うけど、もうすぐ十年。居たい会社でもなければ思い残すこともない。職工になりそこなった半端ものだけど、なんとかしなきゃって思いだした。ところがいくら考えても何も思い浮かばない。
八十年代の初頭、ヘッドハンターなんて気の利いたことは言ってなかった。図書館に行ってイエローページから職業紹介会社をリストアップした。電話して訪問して履歴書をだしてはみたが、出てくるのは従業員ニ三十人のメーカーのフィールドサービスばかりだった。フィールドサービスはニューヨーク駐在で三年やってきた。帰国して便利屋になってしまったが、それでも戦前からの名門工作機械メーカといわれた会社で、一部上場で二千人以上の従業員を抱えていた。将来を賭けて危険を冒してまでして、そんな転職をするか?
ある日、職業紹介会社を訪問したあとで、丸ビルにあった子会社に立ち寄った。丸ビルを出たところで取扱説明書などの書類の翻訳を頼んでいた翻訳会社の営業マンとばったりと会った。これが将来を切り開くきっかけになった。

ニューヨークに三年駐在したことがあるというだけで、英語の実力なんか精々中学卒業程度でしかない。翻訳者としては使い物にならないとしか思えないのに、見習い社員として雇ってくれた。
社長との面接で、「見習いとして勉強させて頂けば、給料なしで結構です」と言ったら、「お金もないと勉強もできないでしょう。世間なみの給料はだしますよ」「いつからでも結構です。明日からでもいいですよ」と言われたときには、こんな上手い話しがあるわけないとしか思えなかった。
なぜ安請けして雇ってくれたのかに気が付いたのは三ヶ月も経ったころだった。社長の「明日からでもいいですよ」が、まさか「明日はわからない」という意味だとは思いもしなかった。翻訳者の給料はわずかばかりの固定給プラス出来高で決まったから、金になる仕事を回してもらえなければ食っていけない。雇ってはもらったが、それは翻訳者になれるかもしれないという立場になったというだけだった。

試験も兼ねた二行三行の訳抜けを翻訳していて気がついた。技術書類は英語の知識があれば翻訳できるってもんじゃない。日本語で書かれた内容を英語に翻訳すには、当たり前のことだが、日本語で書かれていることを英語で言い換える技術上の知識が欠かせない。インターネットどころか携帯電話も想像できない時代で、毎晩アメリカの大学の教科書やアメリカ大使館の図書室で手に入れたアメリカの業界誌を読んでいた。生まれて初めて必死になって勉強した。工作機械メーカにいたときのように社内で使う資料の翻訳とは違う。金をもらったプロとしての翻訳が求められる。

十年お世話になった工作機械メーカは組織で動いているから、個人の能力の差は目立たない。雇ってもらえれば肩たたきにでも遭わなければ定年までいられる。個人の能力を厳しく評価されることは限られているから、明日はないかもしれないといった切羽詰まったところはない。今風の言い方をすれば、ゆるブラックで良くも悪くものんびりしていた。
翻訳業界では学歴も見てくれも関係ない。翻訳の質だけで評価される。年配のベテラン翻訳者でも、仕事があてにならなければ、仕事を回してもらえない。営業マンとしてはクライアントからのクレームだけは避けたい。クレーム処理に追われれば、営業活動どころではなくなる。当然のこととして、営業マンが翻訳者を選んでいた。
数行の翻訳からA4一枚の原稿でできるところをみせて、これなら任せても大丈夫だろうという評価を頂戴して、やっと数ぺージの仕事を回してもらえるようになる。そこで実績をあげて階段を上がっていく。そして一冊のマニュアルの翻訳を任せてもらえるようになって、やっと新米翻訳者としてのスタート地点に立てる。

翻訳室には内勤の翻訳者が十人ほどいた。若くても三十半ばで還暦すぎのベテランもいた。あっちでもこっちでもタイプライターの音が響いているだけで、原稿の内容が分からないからと誰かに相談できるような雰囲気はなかった。誰もが自分の仕事をもって時間と競争でもしているかようで、ベテラン翻訳者の邪魔にならないように気を使う毎日だった。たまにニ三行の訳抜けを頼まれるだけで、手持無沙汰でしょうがない。組織で仕事が回っている機械工場とは違う。
ベテラン翻訳者は自分の仕事を最も効率よく片付けるために出社することもあれば、自宅でという日もある。後日知ったことだが、出来る翻訳者の多くは翻訳会社の社員であるにもかかわらず、同業やブローカのような人たちから金になる、そして支払に不安がなければ内職のようなこともやっていた。内勤翻訳者としていた方が得だからというだけで、フリーランスの翻訳者然としていた。その人たちは気分転換に世間話をすることはあっても、仕事以外ことに時間を使うのは最小限にしたいと思っている。昼前に出て来て、さっさと予定の仕事をして、三時四時には帰ってしまう人もいた。誰も彼もが時間を大事にして忙しい。

ところがそんなところに仕事の出来ない、もう四十も半ばを過ぎたベテラン翻訳者がひとりいた。暇なのだろう、親切に色々教えてくれた。本当に会えてよかったという人だった。後日婚姻届けの保証人にまでなってもらった。
なんとか独り立ちしなければと必死だった。時間があれば、書棚の試料を引っ張り出して用語集を作っていた。必死だったのに驚いたのだろう。ある日、そのいい人にたしなめるかのような口調で言われた。
「藤澤さんさ、忙しいって漢字知ってるでしょう。心を失うって意味なんだよ。無理するのにも限度ってものがあって、度をすぎるとまいっちゃうから。ね、もうちょっと気楽にいこうよ……」
ありがたいアドバイスだった。技術的な情報や知識ならいざしらず、外国語となるといくら根を詰めても、身につくのには限りがある。のんべんだらりとしていてはいられないが、さしたる才もない人間が単位時間内に受け入れられる情報量には限りがある。新たに知った様々なことが整理されて知識として昇華していくのにも時間がかかる。できるだけ早く一人前になるべく先を急ぎたいがどうにもならない。それ以上詰めこむと残るものも残らない。それだけならまだしも情報量が増えるだけで使える知識にはならない。そしてバタバタした分気持ちが荒れる。

心を失うと言われてちょっと考えた。忙しさには、コントロールされた忙しさとコントールされていない忙しさの二通りのケースがある。これ以上突っ込めばコントロールを失うというレベルをたまに超えてしまう程度の忙しさを保つようにすれば、最も効率がいいと今でも思っている。許容値をちょっと超えた程度の負荷がちょうどいい。コントロールされた忙しさなら心を失うこともない。適度な負荷が能力を引き上げる。後日お世話になったGEではこれをストレッチと呼んでいた。
2024/5/15 初稿
2024/7/3 改版