人も犬も…、要は環境次第(改版)

人も犬もというと、じゃあ猫はと気になる人もいるだろう。例として挙げただけで、猫もふくめてほとんどの生き物にも似たようなことが言えると思っている。
昔お世話になった同僚と暑気払いということで恵比寿まで出ていった。それは七月上旬のほとんど体温のような猛暑の日だった。電車の中は涼しいからいいものの、家から駅までと駅から店までの、たかだか五分かそこらがきつい。セミナーでもなければ出かけることもなくなって、体も気持ちもなまってしまった。

月曜だからか店は空いていたが、新宿からの山手線は通勤客でいっぱいだった。夜も十時をまわっていたのに新宿への山手線はなんでと思うほど混んでいた。酔いのせいもあって体が重い。左手でパイプを握って、右手でつり革につかまって体を支えるようにしてぽっと前見たら、左前にはスマホをいじっているカップルがいた。そして右前にはアフリカ系と思しきアメリカ人が頭にオーバーヘッドヘッドフォンを乗せたまま寝ていた。渋谷を着くころにはカップルの女性が彼氏の肩に頭を乗せて口を開いて寝ていた。駅にして四つ、時間にすれば十分足らずだったが、冷房の利いた山手線のなかには平和な日本があった。カップルは新宿で降りたが、アメリカ人らしき人は人の乗り下りで騒がしい新宿でも目を覚まさなかった。

パリやロンドンの地下鉄で居眠りするなんて考えられない。自動小銃を抱えて軍用犬をつれた警官らしき人が見まわっているところでは、いくら乗り慣れても緊張感が消えない。ましてやニューヨークの地下鉄なんか、金貰っても乗りたくない。普通の日常生活をおくっている限り、日本は世界でももっと危険を感じることの少ないところだろう。アフリカ系のアメリカ人らしき人にしても帰国して地下鉄に乗って寝込むとは思えないし、日本人がロンドンやパリで地下鉄に乗ったら居眠りすることもないだろう。東京ならつい居眠りしてしまう人でも、緊張をたもっていなければならないところでは、目をつむることすら躊躇うだろう。要は環境次第ということなのかと考えていたら、堀田善衛の『ヨーロッパのワン公たち』と題したエッセーを思い出した。

ヨーロッパに限らずアメリカでも、それなりの社会層や精神生活として中流階級であれば、犬も子供もしっかり躾けている。なんどか同僚の自宅に招かれて感心した。子どもが大人の会話に混じってくるようなそぶりを見せない。食事も別の部屋に用意しているのか、呼ばれない限り顔を見せないこともあった。
犬も同じで道ですれ違っても、お互い挨拶のような様子は見せても、日本のように牽制しあったり吠えたりすることはない。
その行儀のよさ過ぎる犬が日本に連れてこられた途端、犬が犬らしくなってしまう。エッセーの締めくくりを書きうつしておく。
「ヨーロッパで犬を飼っていた日本人の友人が、その犬を日本へつれて帰った。成田空港での検疫が終って外へつれ出した途端、その犬が他の犬と大ゲンカをはじめたという話も聞いた。どういう説明がありうるものであろうか。犬に聞かなきァわからんか」

犬に訊こうにも術がないから想像するしかない。こんな説明で説明になっているのかとは思いはするが、こう考えれば、犬らしくなってしまうのも納得がいく。相手の犬が犬らしく自分の存在、あるいは縄張りを主張してきたら、された犬も本能からして引き下がっている訳にはいかない。上下関係がはっきりしない状態では自分をしっかり主張しなければならない。それは犬だけじゃないだろう。猫でも馬でも鳥でも、そして人間にしたところで、年齢や先輩後輩、社会的あるいは社内における立場によって取るべき態度が、たとえそれがその場限りのもの、あるいは取って付けた体裁だけにしても決まってくる、ということでしかない。
2024/7/14 初稿
2024/8/27 改版