価値あるものを求めれば(改版1)

サッカーでも体操でも野球でもスポーツを見ると思うことがある。スポーツだけに言えることではないのだがスポーツの場合は分かり易い。見ていておいおいしっかりしろよと思うことがある。でも、それは見るだけの者が勝手に思うことでしかない。選手でなければできない−見るだけ者にはできないことは分かっている。
そこそこのチームであれば高校野球でもぎりぎりの練習を重ねている。ましてやプロともなれば、たとえ控えの選手でも並の努力や能力ではない。フツーの生活をしているものには想像もつかないとんでもない鍛錬を重ねている。プロとはフツーの人がフツーの生活をしていてなれるものではない。テレビに映っている選手たち、ここまでくるのにどれほどの練習を重ねてきたのか。私生活の全てでどれほど課題を自分に課して来たのだろうと思うと傭兵稼業でだらしのない生活を送っている自分が情けない。
スポーツだけでなく、何かでその道を極める、そこまでゆかなくとも多少は胸をはって、自分はこれこれですと言えるようになろうとすれば、その道に関係のないことは妥協しなければならなくなる。天与の資質は人それぞれだが、人の能力にも時間にも限りがある。その限りあるなかで道を極めようとする人たちの間での競争がある。競争のなかで、あの道もこの道もと、いくつものことでプロと呼べる、あるいはそれで自信をもって禄を食んでいるといえるようにはなりようがない。何かを求めれば、何かの妥協というか優先度を下げる、あるいは諦めざるを得なくなる。求めているものが、極めようとしていることが高みあればあるほど、妥協というレベルを超えて犠牲と言った方が合っているところまでゆく。そこでは自制というのか、ストイックな生活を喜んで続ける精神的体力が要求される。
高校野球でも甲子園まで行こうと思えば、野球漬けの、野球以外の全てを捨てた生活になる。そこまでしても、甲子園どころか予選で早々に敗退する。最後の栄冠に輝くとまでゆかなくても自分も関係者も納得のいくという言い方になるのか、ここまでやったのだから、ここまできたのだからいいじゃないか、十分じゃないかと思える結果ならまだいい。全てを犠牲にしても納得できるようなところまで辿りつけないで終えるのがほとんどだろう。
自分の全てをなげうっても求めたものは得られなかった。求めたものは得られなかったが、なげうった全てがその代償として残る。代償としてという言い方が合っているのか気になる。そこには負の遺物のような響きがある。はじめから失うであろうものははっきりしている。失うものははっきりしているが、よほど恵まれた人でない限り、求めるものが得られる可能性は低い。低いというよりまずないと言った方があっている。それは、人生に多少の計算を持ち込む人たちの目には勝ち目のない賭けにしか見えないだろう。
何に人生の価値をおくか?人生にとって大事なものが何かは人それぞれと言ってしまえばそれまでなのだが、あえてハズレの少ない人生を選ばない人たちの生き方に人を魅了するものがあるのかもしれない。ハズレのない、あるいは大きなハズレのない人生を送っているフツーの人たちには、そこまでのある意味一種の人生の賭けのようなとこをする機会もなければ勇気もないだろう。
ほぼ百パーセントハズレしかないなかで、ストイックな生活を送り続け、夢を追う人たちに憧憬の念がある。自分にはそこまでできない。しようとしている人、しようと出来る人たちを羨みながらのハズレのない席から観客としての存在ででしかあり得ない。
あれこれ考えて、失敗の可能性の少ない選択のなかで仕事と私生活の潤いの両方を案配しながらが今も昔もフツーの人たちがフツーに求めてきたことだと思う。失敗の可能性の少ない場所と機会と。。。を求め、私生活も求めれば、いきおい自分の可能性の限界を安全側に引き下げることになる。なにかの拍子で限界を超えてしまわないよう限界内のさらに内側に留まれば、自分の限界など知ることもないだろうし、限界を求めることで得られるであろう経験や知識、精神的体力を得ることもない。
人生のある一時期にしても全てをなげうって何かに没頭したらどうなるのだろう。なげうった後に何が残るかと考えるとちょっと複雑な気持ちになる。それでも、結果はどうであれこれ以上はあり得ないという力を出し切った、その力を出し切るためのストイックな生活をしてきた、その尽くす過程で自制を保つ精神的体力を養えたというのは残る。その残ったものが全てを犠牲にして得たものだと誇れるものなのか。栄冠に近いところまで行けなかった悔いを補って余りあるものなのか。またそれが将来の糧として生かしてゆけるものなのか、これもある意味での賭けになる。ただ将来の糧にし得るか、し得ないかもストイックな生活を続けてきた精神的体力次第のような気がする。
人さまざま、何がいい、何が悪いという類のものでもなし、人にこうした方がいいと勧めるものでもないが、失うものの大きさを知りつつ、自分の能力を出しきって求め得ないであろうものを求め続けてきたのが人の歴史のような気がする。
果たして、自分は人の歴史−たとえあってもなくてもいい些細な一部に過ぎないとしても−たり得るのか。そこには、もう一人、何をしゃっちょこばるってるという自分がいる。
2015/2/21