時の重み(改版1)

一日二十四時間、一年三百六十五日。誰にでも同じようにある時間なのだが、どうも歳をとるとその同じであるはずの時間が短くなったように感じる。何が変わったわけでもないのに妙に時間がない。時の経つのが早くなった気がする。学校に行ってた頃は、コーヒー一杯で喫茶店で何時間も粘って迷惑もかけたし、就職してからも夕方からは自由だった。飲み歩く習慣はなかったが、あれこれ結構忙しくしていた。それでも今になって思えば、悠長な時間を過ごしていたと思う。懐かしい、いい時代だったと思う反面、もったいない時間を過ごしたという反省ともつかない−それはそれでよかったのだろうという気持ちがある。
若かったと言ってしまえばそれまでなのだが、たいした考えもなくその頃の風潮に流されて何でもかんでもちょっかい出していた。何をしても、いつの間にやら熱が冷めて、どうでもいい思い出とも呼べないものを残して時間が過ぎていった。
転機は三十歳のときだった。香港にある米系大手電気メーカから実習生が三人きた。製造現場の人たちで加工ラインのニ人と保全担当者だった。経費節減のため工場の裏にある独身寮に滞在した。日本ではフツー、彼らにとっては驚きの寮生活の説明からはじまって、朝から晩まで一ヶ月以上その三人の世話をした。実習中は通訳として、時にはにわか教師として一緒に修理もどきの作業。週に何度か二駅先のちょっとした街に食事と食後のブラブラ歩き、ときには居酒屋で、。。。時間はゆったり流れていた。
三人が帰国してひと月も経ったろうか、彼らの上司、上司といってもかなり上の、会社のNo.2が実習に来た。三人と同じキャリキュラムでという依頼だと上司から。初日、お互いの紹介から始まって、スケジュールと実習内容の確認などで昼飯に。午後はざっと工場を見学。お世話になる現場の班長に紹介しながら実習に使う機械をみつくろって、早々に独身寮にご案内。寮監からこの間聞いた注意事項をまた聞かされて通訳。三人から大まか聞いきて来たのだろう、何を言っても分かってますという顔だった。
実のある実習(滞在)にして頂きたいという一念からも色々確認しておきたかったことがあった。初日から夕食に誘った。従業員二千人を超える会社のNo.2が、ひと月も事務所を空けて、なぜ、生産ラインの人たちと同じカリキュラムなのか。普通じゃない。薄給の身、情けないことに寿司屋にとは行かない。後ろめたさを感じながら、前の三人と行ったいつもの中華屋に。香港から来て初日の歓迎の席が日本の中華屋かよという顔をされるのではないかと心配したが、料理のモデルが飾られたガラスケースの前で興味津々、ニコニコしている。ニコニコしながら、最初が肝心、夕食は割り勘と言われた。帰国した三人から聞いて、日本に来る前から決めていたのだろう。香港なまりのブリティシュイングリッシュで穏やかな口調ではあるがきっぱりと言われた。レジで半分にするのも面倒なので、今日はこっちがもつから、明日はそっちでももってくれ、夕食はそっちがもって、飲みはこっちがもつかたちで毎晩安いメシと茶か安い飲みになった。
元々は電気屋だったらしいが、経営に上がってしまって腕は錆び付いていた。機械の操作もなにもかも先に来た三人のようにはゆかない。それでも一つひとつ機能を確認して性能の限界を聞いてくる。几帳面な性格なのだろう、何でも聞いてくる。聞いては来るのだが、知ったところで自分が当事者ではない−機械を操作するわけでも修理するわけでもないというのが見える。個人としての、技術屋としての興味ででしかない。こっちも通訳兼臨時のトレーナーで当事者意識は希薄。製造現場の機械を一台借りて、二人で機械系や制御系の機能の確認という遊び半分の実習が終わる。
終われば、即、寮に帰って作業着を着替えて、こっちはロッカー室で通勤着になって駅の改札で待ち合わせて二駅先の街へ。メシの時間にはちょっと早すぎる。おかげで時間はいくらでもある。個人的なことからビジネスや社会問題。。。何でもかんでも話し合った。
歳は同じ三十歳。この歳でNo.2にいるのは、イギリスの大学に留学したからに過ぎないと自嘲ぎみに話していたが、三十にしてここまでの社会認識。会社以上に社会に対する責任感が話の節々にじみ出る。自分は敬虔なクリスチャンで金には余り興味がない。良き社会人でありたりと思っている。金を気にするのなら、香港で製造業はない。金融かサービス業に行っている。同い年の奥さんはテレビ局で働いている。何をしているとも思わないがテレビ局の給料にはかなわない。女房に食べさせてもらってるようなもの。誰も社会に対する責任からは自由じゃない。女房との違いは社会人として好きなことを好きなようさせて頂いていることぐらいだろう。
毎晩話しているうちに、口癖ではないだろうが諭すような同じ言い方を何度も聞いた。「男の人生は三十から始まる。その前は準備期間に過ぎない。」、「三十からが人生、お互いこれからだ。」
実習といっても自分の技術的関心以上のものはなかった。休日は寮で持ってきた本を読んでいた。三人とは違って東京や新宿、浅草あたりに出かけるわけでもない。いったい何のために日本に来たのか分からなかった。
一年ほど経って、十年以上お世話になった会社を辞めた。どこから話を聞いたのか、香港からこっちへこないかという丁寧な手紙を頂戴した。その時既に三十からの忙しい毎日が始まっていた。お誘いには丁重に辞退させて頂きたい旨返信した。三十過ぎてから、それまでにしなければならないにもかかわらずしてこなかったことを時間を惜しんで、それこそ突貫工事で進めていった。いい歳してあっても骨格だけ、基礎工事から始めて未完というより一生かかっても完成しそうもない何かを求めようとしていた。
三十代、四十代の一年と五十、六十を過ぎての一年。同じ一年でも、残っている年を思うと同じ一年ではない。歳をとればとるほど、一年の重みが増してくる。残っている年にしては遣り残したことが多すぎる。どこをどうして手をつけていいのかすら分からないことも多い。若いときと違って、失敗すればそれを取り戻す時間もない。いきおい慎重にならざるを得ない。手をつけたら取り返しのつかないことになりかねないのもぼんやりと見える。でももうたいして時間が残っていない。失敗を恐れていたら遣り残したままで終わる。やってダメならしょうがない。やらずに残る悔いの方が気になる。急がなきゃ。
2015/3/3