甘言の落ちるところ

多くは程度の問題なのだが、中にはその程度の度が過ぎて、「もう、いい加減にした方が身のためだし、周囲の人達のためでもあると」と苦言の一つも呈したくなることがある。人当たりはいいし、今風の言い方で言えば空気を読むとでもいうのだろう、周囲の人達への目配りも長けている。ちょっとみれば如才ないことこの上ないと言うより、実に上手な世渡りと感動することすらある。要領がいいといとうのか抜け目がないというのか。頭はいいのだろうが優秀という訳ではない。一緒にしたら、まともな人達が激怒しかねない。一言で言えば精々小利口というところだろう。
全てにおいて、どんなことがあっても自分の責任にはならないように言辞を弄する。言葉は明瞭なのだが、歯切れはお世辞にもいいとは言えない。それでもフツーの人がフツーに聞けば全ての責任をとる意思があると言っているように聞こえる。言葉の意味をきちんと定義して使う習慣のある人が聞けば、言っていることの節々に、そこには取れる条件が整った場合だけという逃げ道が埋め込まれているのがみえる。
人生において最も大事なのは、窮地に陥ることなく常に安全サイドに身を置くことだという信念にも近いものを持って生きているのではないかと思う。まるで、”注意深い”、中国語でいうところの“小心”を座右の銘としているかのようにみえる。実務をしようとはしない。全ての実務は周囲の人、あたかも下々がやることで自分が直接手をかけることでないと思っている。自分で何かをすれば、うまくゆかなかったときに、明らかに自分の責任になって逃げられない。もっとも、何をするにもやり慣れてないので、何かしようとすれば一騒ぎになりかねない。自分では何一つまともにできない。何かの拍子に何かをすることにでもなれば、自分では格好を付けたと思っている誤解と誰も使えない資料と呼べない資料の類くらいが産物として残ることになる。
若い時から実務を避けてきたので、評論家よろしく口ではああだのこうだの言うが、何かをする能力は失せて久しい。あれきた言辞の遭遇する度に、平安時代のお公家さま連中とはこういう人達だったのだろうと思う。そう思うと、あまりにもあたっているだろうという勝手な想像から、妙に納得してしまう。何からなにまで、実務のことは人任せ。それが自分のあるべき姿だと、それ以外のありようはあり得ないと思っている。
そんな御仁が、これだけはと思っていることが一つある。人の和を求めてといえば聞こえがいいが、要は自分の都合のいいように周囲の人を動かすための甘言を振りまく。誰も彼もが甘言にほだされてという状態をつくりあげる労は惜しまない。苦言でですら、甘言にしか聞こえないまでに、言辞能力を芸術の域にまで昇華しようとしているようにすら見える。その言辞能力、もう平安貴族ですら手球にとれる域に達しているかもしれない。
ただ、その言辞能力で人を思いのままに操る術ではどうにもしようのない本質的な問題がある。どれほどの人達をどれほどの間ほだされた状態し得るかで得られる収穫物が決まる。実務に長けた優秀な人達をできる限り長くほだされた状態に縛れれば、得られるところも大きいが、能力の低い人達をいくらほだされた状態に保ったところでたいしたものは得られない。
そのため、実務能力の高い人達をほだすべく言辞能力を研ぎ澄ましてきた。その研ぎ澄ましたのを駆使して、手間暇惜しまず、頻繁に飲みにゆくなどメンテナンスも怠らない。しかし、いくら芸術の域まで高めた言辞能力を最大限駆使しても、実務能力のある人達ほど、ほだされたとしてもその期間が短い。何度かほだされて、さめてを繰り返すと、甘言に対する免疫のようなものができて、手を変え品を変えの甘言も効き目がなくなる。
実務能力に自身のない人達ほど、人間関係にたよる面が多い。その分甘言に乗りやすいし、甘言に過ぎないと薄々感じていても、進んでほだされ、自らほだされた状態を保とうとする傾向にある。ほだされた同士が共鳴しあってほだされた期間を引き延ばすこともあるだろうが、そこには残念ながら能力の低い人達が多い。中には実務能力が高いにもかかわらず世事に疎くほだされやすい人達もいるだろうが、多くはない。
時間の経過とともに落ちるべくして落ちるべくところに落ち着く。能力のある人達は、甘言を駆使した言辞能力でことをなそうとする人からは距離をおくようになる。フツーの人達は、甘言が甘言にすぎないこと、まともに甘言にほだされるということは、ちょうど風邪のような病気にかかるのと似たようなものであることを感じて、自身の精神状態を正常に保ち得る健全な距離を保つようになる。残るのは甘言ほだされやすい、ほだされ続ける人達−実務能力の低い人達になる。ただ、この人達をいくらほだしても、実務をまともに遂行し得る組織にはならない。甘言を弄する人は、最終的には実務能力の低い人達のなかででしか生きられない。
平安貴族の性根を見極めてしまった侍が貴族を見捨てたのと同じようなことが起きる。能力のある人達は離れ、ない人達に囲まれて、できることといえば、言辞を弄して貴族の体面を取り繕うことだけになる。
優秀な人達のなかには、たまには気分転換に甘言の毒素をスパイス代わりに、遊び半分でというのもいるかもしれない。
2013/10/20