バイセミリンガル(改定1)

学んだ英語ではなく、育った環境から得た英語の能力を持っている人が羨ましい。多くは親の仕事の関係で海外生活が長かったり、海外で学校を卒業したという人たち。そのような人たちに混じって仕事をするとイヤな思いをすることがある。イヤな思いというとちょっと違うのだが、なんといったらいいのか分からない。言ってもしょうがないことだし、口に出して言えば、自分の至らなさを棚に上げての発言になりかねいという別のイヤささえある。ただ、三十年も四十年もかけて苦労して英語を学んできた者には到底到達し得ないネイティブスピーカの英語を聞くと、正直、不自由な英語で話すのを躊躇する。少なくとも気後れする。
そのような人たちをバイリンガル(の人)と呼ぶのだろう。ただ、中にはバイリンガルばバイリンガルなのだが、単にバイリンガルというのとはちょっと違う人たちがいる。日常業務や世間話のうちは日本語でも英語でもネイティブ。誰が聞いても日本人だし、アメリカ人。疑いようがない。日本語のうちは対等に話しができるのだが、英語の話の輪の中に入った途端、彼我の能力の歴然とした差を痛感させられる。
なんとも変なのだが、そこまで言語に堪能にもかかわらず、ちょっとした抽象概念まで駆使してロジックを構築しなければならないような領域に入った途端、日本語でも英語でもかなりのレベルで支離滅裂に近い崩壊状態に陥る人たちがいる。ちょっと前の議論を整理して、確認済み了解済みの事柄を合意事項として固定して、議論を先に進めようとしたとき、次の段階に入ったところで前に合意事項として固定したことがふらふらしだす。ふらふらし始めたかと思ったら、あっという間にふらふらどころか了解したはずの、固定したはずの事実が雲散霧消してしまう。
口語であれば、どっちの言葉でも何不自由ない人たちが、日本語でも英語でも文語でのロジックの構築になった途端に、あたかも知能指数が数十すとんと落ちたような状態になる。相手しているのは同じ人のはずなのだが、同じ人とは思えない違いにこっちがあたふたする。あたふたしなければならないのはバイリンガルの人の方のはずなのだが、本人はなんとも思っていないというか、こっちのあたふたに気付いて、何をあたふたしているのだという変な立場の転倒のようなことが起きる。
日本語なら口語でも文語でも対等という意識が両者で共有しているからまだいいのだが、こと英語で起きるとやっかいなことになる。日本語より英語の方が言葉の定義も品詞の使い方も明確なだけにロジックの欠陥が目に付き易い。付き易いにもかかわらず英語でもバイリンガルの人が英語でロジックの通らない、通りようのないことを平気で言ってくる。何の疑問もなく言うくらいだから自らのロジックの欠陥に気がつかない。気がつかないというより、気づく能力がないという方が合っている。
ここで、英語ではネイティブではない者が、バイリンガルの人に対してあなたが英語で言っていることは、これこれの整合性がない、おかしいと英語で指摘するには、ちょっとした勇気がいる。バイリンガルだから間違っているはずないじゃないかという先入観が邪魔する。 どう考えてもおかしいと、バイリンガルに対して英語で、相手の気持ち、おそらくバイリンガルとしてちやほやされていることから生まれるプライドのようなもの傷をつけずに、どう伝えるかに苦慮することになる。
ネイティブでないものにしてみれば、ネイティブだということで頼りにしている、していて当然。ネイティブにしてみれば、一目置かれるのが当たり前、下手すると尊敬しろという傲慢なのまでいる。相手を傷つけるのが目的でもなし、今の課題を早く終わらせて次にとりかからなければならない。そのためには、きちんとロジックで合意しておかなければならない。今の小さなズレが先に行って取り返しの付かない大きなズレになりかねない。
日常生活とその延長線ではネイティブ−バイリンガルが思考の段階に入った途端、バイリンガルではなく、あたかもネイティブ−バイセミリンガルに陥る。言葉の定義がしっかりしていないとロジックの構築はおろか、ちょっとした書類でもあやふやな、ビジネスにおいては危険ですらある文章になりかねない。
育った環境によって得たバイリンガルの能力は本当に羨ましい。羨ましいが、ちょっと深みに入った時にバイリンガルというよりバイセミリンガルであることを発見すると、羨ましさが憐れみの情に変わる。
人間は言語で考える。その考える言語が複数あれば、考えられることも広がる。広げたいと思ってきた。ところが二つあっても、そのどちらでもしっかり思考できるレベルに至らなかったらどうなるか。
外国語を学ぶしかなかったものの余計なお節介と思われるのが落ちだろうが、思考の基本である母国語があやしかったら培える能力にもおのずと限界がでるような気がしてならない。 考えるための母国語。大事にしたい、しなければと思う。育った環境によって得た母国語。放っておいてバイセミリンガルのセミの一つと似たようなものになったらと心配になる。
2013/12/28