偽物から本物が生まれる

米国やヨーロッパの多くの国々で日本ブームが続いている。十年以上前になるが、夏休みに行ったロンドンでは日本食に不自由しなかったし(怪しいのもあったが)、ブラッセルでは日本食だけでなく、翻訳された日本マンガ専門店まであった。お世話になった州政府のお役人のご主人が日本マンガのマニアだと聞いてうれしいやら情けないやら。歳のせいなのだろう、日本のマンガが世界で、少なくとも米国とヨーロッパでここまで人気を博していると知っても素直に喜べなかった。
住んでいたボストンでは日本食がブームと呼ぶステージを過ぎて、食文化の一端を担いかねない広まりを見せていた。仕事に追われて週末ぐらいしか家族に時間を割けない生活を送っていた。そのせいもあって、週末には決まって家族を連れて外食にでた。アメリカ飯も悪くはないがやはり日本食がメインで、ボストンの主だった日本食レストランは行き尽くした感があった。日本人向けの情報誌などからまだ行ったことのない日本食レストランを見つけては遠出した。不幸にして行って良かったというレストランは一軒もなかった。日本人社会で多少なりとも名の知れた日本食レストランでも明らかに経営が違う、コックも違うというのがあったくらいだから、知られていないレストランでこれは日本食だと言える料理がでてくることはなかった。
多くがブームにあやかって日本語の看板を掲げた中国レストランか韓国レストランだった。中にはアメリカでもなし、国籍不明というのかどこのものなのか分からないものまであった。中国や韓国の飲食店が店名とメニューをよくある日本語にかえて、体裁だけの日本食レストラン。出てきた料理をみて、こんなの誰が注文したんだと家族四人が顔を見合わせる。頼んだ料理と日本人がフツーに思っているものと見た目が違いすぎる。恐る恐る一口口にして、一様に“なんだこれ”。たまげた日本食、いったいどうやったらこんなとんでもないものが料理として出てくるのか。なんとも説明のしようもないだけならまだしも、ウェイトレスかウェイターがチップほしさなのだろう、料理はどうだ、うまいに決まってるとでもいう口調で、にこにこしながら聞いてくる。その程度のズレには慣れてしまって、呆れた状況をそうだろううんうんと納得してしまうありさま。料理を作っている人がまともな日本食を食べたこともないし、ましてや日本食を料理するために修行したなどというのもないだろう。ついこのあいだまでマックで働いていた、ピザ屋で。。。なんてのが料理していた訳でもないとは思うが。
昔、ニューヨークに住んでいた時に上司か誰かが知り合いから聞いたという日本食レストランに行った時のことを思い出す。釣具メーカの駐在員だった人がどういう経緯か知らないが現地で脱サラして日本メシ屋を始めてしまった。市内から遠く離れているので日本人客が来る心配はないと思っていた。知り合いの紹介でも日本人には来て欲しくないとのことだった。田舎なので思ったように食材が手に入らない。しらたきがないのですき焼きにはインスタントラーメンを入れてごまかしていた。これが日本食というしっかりしたイメージを持っていない客。いざとなれば、日本のxxx地方の郷土料理ですとでも自信を持って言えばそれで通ってしまう。
これでも日本飯か。こんなもん頼んだ覚えないぞ。メニューに書かれた料理からは想像もできない“しろもの”が出てくる。“しろもの”を何度も試食させられているうちにふと思った。なんだ、メニューの名前が間違っていると考えれば辻褄があう。名画の贋作を作れば罪になる。贋作を描く能力があるのなら、自分の絵を自分の名前で世に問えばいいだけのこと。似たようなのが日本料理にもあるじゃないか、曰く“創作料理”。うまいまずいはある程度人の好み。数の少ない日本人向けに本物のような日本飯など忘れて、日本料理からヒントをえたアメリカの日本風創作料理でいいじゃないか。頑張って本物のような偽物に甘んじるのか、頑張りようもない偽物の中の偽物、名前だけの日本料理で終わるのか。これは本物、偽物というものとは一線を画した新しい料理だと主張すればいいじゃないか。幸い都合のいい看板“創作料理”なるものがある。
よくよく考えると、多くの新しい食文化がこのような一見インチキのようなものから生まれてきたのではないのか。元々あったものの名前を使って元々あったもののようになっていないから、まがい物呼ばわりされる。まがい物ならまがい物でまがい物にきちんと名前をつければ、うまいまずい、口にあうかどうかは分からないが、それはそれでオリジナルの新しい料理じゃないか。ラーメンという良い見本もある。
2013/11/17