垂れる稲穂と高い頭

もらったおつりに入っている五円玉を見ると、オヤジが言ってた「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とう諺を思い出す。普段と変わった口調でもなかったので、諺の言わんとしていることをストレートに言っただけのことで、何か別の含みを持っての言葉ではなかったと思っている。
十代半ばには、夕飯を食いながら、食い終わっても、二人でよく時の社会問題について言い合っていた。若い者にありがちな思慮に欠けた短兵急な結論、複雑な問題に対する単純な答えを主張しては窘められた。オヤジは広い社会層の人達を知人として持っていた。それでも、頻繁な付き合いは遊び仲間とで、交友関係と呼べるほどまでの緊密な付き合いのあった人がいたとは思えない。
あの時代に居合わせ、何かの運不運でさまざまな経験をしてきた人だったが、壮年期を過ぎた頃には、自身の「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を気にした話し方をすることが多くなっていた。自身の社会的立場がそうさせたのだろうが、余程のことでもない限り、言葉を慎重に選び、丁寧な話し方、慎重な発言を心がけていた。そのせいでもないだろうが、志向や思考を、たとえ部分的にでも共有し得る知り合いも遊び仲間もいなかった。色々な意味で見すぎてしまったからか、精神生活においては孤独な人だった。その諺が言っていることと正反対の言動に接しては、それをぼそりと口にすることがあった。
市役所の隣で世話焼き貧乏町医者をしていたこともあってか、住まいには病気以外のことも含めて相談ごとで人の出入りが絶えなかった。晩酌をしながら話をしている隣で、できるだけさっさとメシを食べて自室に退散を試みていた。話を聞いてもなんともならないことも多かったようで、諭すような口ぶりで晩酌相手に話をしていた。稚拙なロジックを展開する人も多かったらしく、嫌気がさしてのことだろうが、しばし、誰に言うとでもなく「調査、研究をしない者には発言の権利はない」と厳しい口調で言っていたのを思い出す。
よく来る人達を見ていると調子のいい時には自慢話をしに晩酌にくる。オヤジに言わせれば自業自得で困ったことになると、それもまた晩酌にくる。未成年の息子にとっては夕食時に迷惑ででしかない人達も多かった。断ればいいのにと思える、変な持論を振り回す人達も、くればくれで相手していた。なにがそうさせていたのか分からないが、妙に寛容だった。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」からは程遠い人達でも、自身はそれを崩すことなく相手していた。
酒は一緒にしなかったが、そんなオヤジとその晩酌仲間のオヤジ同士の話しに何度も巻き込まれた。オヤジ連中の訳の分からない、地球の周りを太陽が回っているといった現象だけを捉えた話に、学園紛争の青臭さを引っさげた若いのが正論を吐いていた。若気の至りで口調はとんがっていただろうと反省はしているが、正論を吐いたこと、吐いた内容については、今でも誇りのようなものを感じる。
卒業して社会にでて、オヤジの周りのオヤジ連中とは違ったサラリーマンという種族の人達と付き合うことになった。違う種族の人達なのだが、多少社会観の違いはあっても、話のロジックのレベルというか整合性の面では似たり寄ったりで、突っ張った若い者にはとっては蔑視の対象だった。
日米欧の会社を渡り歩いて、したくもない、しない方がいい類の経験もし、色々なことや話も見聞きして、その背景も見てきた。当たり前の話だが、全ての人が持論を振り回すわけではない。逆に、いくら聞こうとしても考えも意見も出てこない人の方が多いことに苛立ちを覚えることも多い。自分の考えや意見をしっか持たなければならいが、意味のない持論を振り回すのは自分の恥を晒すだけになる。持論を振り回す人達の多くに、振り回す内容ではない共通したものがある。そこには、年齢や立場に関係なく「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という諺なぞ考えたことがあるとは思えない知性としての欠陥がある。
若い人たちの若気の至りなら、見ようによっては好感も持てる。とんがった若い人たちが今の社会を変えて次の社会を作ってゆく。その人達が早々に老成しているようでは先がない。若くして、頭が下がるほどの実るわけでもなし。頭が上がっていて当たり前。
問題は、歳も重ね、それなりの立場にいる人達にある。そこそこ実っていていいはずの歳なのだが、そのとってしまった歳が悪さしてか、程度の差はあっても、傲慢で高圧的な態度が目に付く。頭を垂れるどころか図に乗っているとしか思えない言動に終始する。おそらく、垂れるほどの重さのない頭なのだろう。ヒラメのような上しか見えない目に、ますます上を向く頭。己の立場が危うくなるようなことでもなければ下がることのない頭がお飾りのように肩の上に載っている。肩の上に載っている頭、まさか毛を載せるために載ってるわけじゃないだろう。載せる毛が貴重品になってきた最近、とみにそう思う。
肩の上の載ってる頭、最も大事な目的は下げることにある。ただ、下げるだけではもったいない。折角付けて産んでもらった頭、たまには考えるためにも使わなきゃと思う。もっとも、垂れるくらいの重さの使える頭がついていての話だが。
2013/8/18