核と附帯

椅子に座って動けない状態のところに耳元で単調な繰り返しのリズムがある。おかげで、ついついうつらうつらしてしまう。座ってからいくらも経ってないのに、あまりに他愛なくうつらうつらしてしまうのも、いい歳したオヤジがみっともないかと変な意地をはって、おきていようとするのだが、いつの間にやら、いつものようにうつらうつらになってしまう。熟睡している訳ではないので、周囲の音や話し声は聞こえる。聞こえてはいるがただの音として以上のものにはならない。たまに目が覚めても目を開けるのも億劫。薄めを開けて見るのだが、メガネを外しているから、前の鏡にはぼんやりとした何かが映っていることまでしか分からない。見ても見えないし、見たところで何もない、で、すぐにまたうつらうつら。
子供のころは、椅子にじっと座っていることができなかった。毎月のように行かなければならないのが苦痛だった。動かせる頭を動かしては床屋に頭を真っ直ぐにされた。あまりに動くので、頭を真っ直ぐするのに耳を引っ張られたこともある。働き始めてから随分経った頃からだったと思うが、いつのまにやら、イヤでイヤでしょうがなかった床屋がリラックスする場になっていた。
お世話になる目的は、伸びすぎた頭髪を切って、不細工でない程度の格好に適当に短くしてもらうことにある。要は散髪。古い町なら、商店主同士が床屋で世間話などということあるかもしれないが、フツーの人にとって床屋は散髪にゆくところででしかない。と単純に考えてしまうのだが、なにかもうちょっとあるはずだと気がつく。
きっかけは米国の床屋だった。米国では一般に床屋と言えば、Hair cutの店として“裸の”散髪サービスを提供している。米国も広いので個人の体験から一般化するのは危険なのだが、七十年代後半なら八十年代初頭のニューヨークで、八十年代中頃のクリーブランドで、リーマンショック数年前のボストンでの経験から大筋で間違っている可能性はまずないと想像している。
Hair cutも日本の床屋も提供しているサービスの主要部分は散髪にある。散髪にシャンプーなど付帯サービスも含め両者が提供しているサービスをリストアップすると一点を除いて両者の間に大きな違いはない。一点とは髭剃りで、髭剃りまで期待するのであれば、Barbershopに行かなければならない。簡易床屋とでもいうHair cutでは、カミソリを扱う資格を持っていないため、髭剃りサービスは提供できない。
サービスの項目で比較すれば日米間に大きな違いはない。項目で見れば、同じか似通ったサービスにもかかわらず、日本ではリラックスしてうつらうつらしてしまうのに、米国では疲れる。なぜこれほどまでに違うのかを考えると、何を目的として散髪屋がなのかという文化や歴史の違いにまでたどり着いてしまう。
先に米国では“裸の”散髪サービスを提供していると書いたが、ここで“裸”とは次のようなことを意味している。Hair cutは、店主も店員も、散髪は散髪ででしかなく、いくら突き詰めても散髪までであって、散髪や散髪に付帯するサービスおよびサービスを提供する環境は散髪をし得る最低限のもので十分で、時間も金も労働も最小限に抑え、利益を追求すべきと考えている。客の視点では料金と所要時間になる。散髪を突き詰めて、伸びすぎた頭髪を切ってそれなりの見てくれの頭髪にするサービス以外を一つひとつ省いていったらこうなったというのがHair cutだと思えば、受けられるサービスがどのようなものなのか、たとえ店によって違いはあったにしても、想像がつく。
ドアを開けて入ってみても、日本の感覚では床屋には見えない。どう見ても、妙にスペースのあるがらんとした床に何かがあるだけの殺風景な店内。壁にちょっと大きめの鏡(日本のよりかなり小さい)が下がっている。その前に昔の工場の社員食堂にあったような小さなスチールの丸椅子。日本の床屋の椅子とは比べようもない。うつらうつらできるようなしろものではない。シャンプーはエプロンしたままシャワーのあるところまで店内を歩いてゆく。
物のコストを下げられるだけ下げるだけでは終わらない。当然散髪する人の作業も同じ視点で見直される。よく言えば生産性を上げる、実際に起きるのは手抜きが行くところまで行く。洗髪の後、しっかり拭くのが面倒だからだろう、ボタボタ水を垂らしながら元の丸椅子に戻る。日本のようにバリカンを使ってもいいですかと聞かれることはない。刃先を大きなものや小さなものに差し替えながら電動バリカンでできるところまで切ってしまって、電動バリカンでは届かいないとこを、ハサミでチョキチョキで一丁上がりという感じで終わる。ハサミでは疲れるし時間もかかる。電動バリカンなら効率よく刈れる。電動バリカンを使いきって、ハサミの出番をできるだけ減らそうとする。ここまで、効率というのか生産性を第一義とすると、理髪職人のような自分の仕事に誇りを持った人は消え、手抜きを手抜きと考えられない、日本の感覚ではまるでアルバイトが床屋もどきをしているようにすら見える。
仕事にプライドという類の話はない。仕事はしたくないが、金が欲しいからしているだけで、只の労働以外のなにものでもない。オーナーがいて、店長がいて、店員がいる、そこに客が絡んでくる。客から貰った金を誰だれどれだけとるのか、自分の取り分が気になる。他のことは眼中にない。サービス向上という考えは育たない。いかに支出を抑えて、収入を増やすかが関心事で、伸びすぎた頭髪を切って、はい幾らが残る。
手を休めて隣の椅子を担当しているアルバイトもどきと長々と世間話になってしまうアルバイトもどきの作業員。そう、それは床屋というより、作業員と呼んだ方があっている。
削って、削って裸の核にまで削ってしまった米国のHair cutと付けて付けて核より附帯が大きくなってしまった日本の理髪店。核だけというのも分かるし、それはそれでいいと思うのだが、附帯の快適さを当たり前として育ってきた者にはどうもちょっとで。。。核しか知らずに育ってきたアメリカ人もなんと言おうが同じように思っていると思うのだが。
間違いなくそうだとは思うのだが、ことは床屋に限らず、肝心の核の質が心配になるほど附帯が多く、豪華になってくると、いったい何を必要としているのか、何はあってもなくてもいいのか。。。たまにはちょっと考えてみなければならないなと思う。ちょっと考えたら、なんのことはない。ただ、うまく乗せられているだけのような。
2013/8/25