“器”の話し

もう十年以上の知り合いだが、フツーの人達の目には、何が彼の存在を多少なりとも特別なものにしているのか分からない人がいる。仕事での付き合いなので個人生活までは存じ上げない。仕事の場での言動からして、個人生活でも特別なことのない穏やかな日常だろうと想像している。
誰がどう見ても激怒して当たり前、そこで怒らなければ、あんた一体何なんだと詰問されてしかるべきときでも怒らない。あるいは怒っているのかも知れないが、相手にも周囲の人もいつもの穏やかなままでいる。怒ったのを見たこともないし、刺のある物言いを聞いたことがない。怒っているのかもしれないが、表情にも話にも感じられない。こっちが鈍感なのかと気になって、周囲の人達に聞いてみたが、誰もが同じように感じていた。ただ、茫洋として掴みどころのないだけの人なのか、それとも計算ずくで、はっきりした意思表示を避けているのか、どっちなのか、あるいは両方なのかの見当もつかない。
問題の渦中にいる担当者にボソッと、しばしご機嫌伺いのような口調で話す。一般的な組織なら、命令しなければならない、命令出来る立場にいるにもかかわらず、常に穏やかな口調を崩すことはない。口調だけでなく、何が問題なのかはっきり指摘せずに、示唆するような口調で言うものだから、聞いた方は何を聞いても世間話程度のこととしか思わない。ご本人は“指示したつもり”、“指示されたはず”と、した方が思っている人は指示されたとは思っていない、あるいは、されたのかもしれないが、口調からされたとは思わなかったという逃げまで考えて黙殺する。周囲の関係者には、担当者に解決しようと言ったことを、それは注意しておいたから、話しておいたからというよう報告ともつかない話がされる。
フツーの見える熱意で動く人達の目には、問題から逃げている、やる気がないという評価になる。問題に直面しなければならないという当事者意識の欠如に映る。そのような周囲の人達に陰口を叩かれたところで、生き様の域にまで達した日常の言動を変えるわけではないもないし、変えなければならないと思うこともない。
人とはぶつからない、フツーの人達がフツーに遭遇する程度のゴタゴタでは驚かない。見方によってはただの愚鈍にしか見えないこともない。常に穏やかに癒し調の言動がどこから生まれてきたのか、気になって考えてみたが、この類の常でこうだという答えがあるわけじゃない。
穏やかな日常を理想として、なんとかそうした日常を得ようとしているのだが、いつも山積みの問題の中にいる。あっちで、こっちでそりゃないだろうという問題をどうしたものか、どうやって解決するかについて随分話し合ってきた。しばし問題は問題として解決されなければならないのだが、問題が解決されなければ問題としてあるのではなく、特に傷んだ組織では、もつれ合った経緯と人間関係が問題を問題としている最大の原因であることも珍しくない。
そこでは、問題を問題として直視する−問題のごった煮の中から、解決すべき問題を明確に摘出するかのようにきちんと把握すればというセオリー通りのアプローチは役に立たない。もし、できたとしても、摘出する作業がもつれた人間関係を更に悪化し、触れるには危険過ぎるので触れずにおいておいたものを表面化する。目の前の問題の解決を試みて、さらなる問題、もっと面倒な問題を生み出す環境を作りだしかねない。
いきおい、彼のいつものアプローチしか選択肢がなさそうということになる。人が生来的に持っている人に認められたという素朴な気持ちを梃子に、もつれた人間関係の解きほぐしを−不用意に絡んだ糸、これからも慎重かつ有効に使ってゆく糸を切ってしまわないように注意しながら−問題解決に向けて始める。フツーの目には遠大過ぎる迂回で、しっかりした目的意識を持ち続けないと途中で座礁しかねない。 よく言えば、セオリー通りの適材適所の(時間をかけた)人材活用なのだが、見え透いた手の内や、個々の策に溺れたり、策同士の整合性に欠ければ、ただの人誑しに過ぎないことになる。
一歩間違えば生物的に死に至るような過酷な条件下で仕事をしてきた人にしてみれば、フツーの人達が遭遇する問題は、それはそれで大変だろうが、解決出来ない類のものでもないはず。能力のある人に能力を発揮できる環境さえ提供すれば、必然として解決されるはずという、ごくごく普通のマネージメントと言える。
この能力のある人達が能力を発揮できる組織を構築するために、問題から組織、組織から人心へと問題解決の迂回が フツーの人達から目の前の問題から距離をおきすぎた、問題から逃げている、いったい何をしようとしているのか、分かっているのかという不信の目で見られることになる。
変な比喩になるが、人心からのアプローチは、フツーの人達には、皮膚科の藪医者が内蔵疾患から生じているのを知ることなく、皮膚科としてあれこれの軟膏を使って一向に治療が進まないのに似たように見える。問題に切り込まずに、問題を複雑にしている直接、間接の関係者の関係調整から個々の関係者の人心掌握。。。が直面している問題を解決するだけではなく、将来の事業体のありようを作ってゆく作業がフツーの人達には藪医者にしか見えない。
そんな大きな“もの”(時間軸も含めて)があるとは考えたこともなければ、聞いたこともない、フツーの人の理解の限界をあまりに大きく超えた“もの”が目の前に現れたら、人は現れたことにすら気がつかないか、気がついたとしても、その大きな“もの”の全体像は見えない。現れた“もの”の価値を想像する能力もないから、見なければならないという考えにも至らない。多くは、価値判断の枠を超え過ぎた“もの”を価値のないものとして無視する。あるいは、自分の見える範囲のもの、しばし、その“もの“自体ではなく、その影だったり、”もの“の影響で動いている周囲のものをその”もの“と誤解する。
人間誰しも目に入る見えるものまでしか見えない。理解の限界を超え過ぎたものは、その存在すら認識し得ない。その超えた“もの“と似たようなところにいる人達なら”もの“が何なのか想像がつく。この想像がつく人はその超えた”もの“に近いが故に、周囲の人達からはその一部しか理解してもらえない。その超えた”もの“が何なのか分かるのは、その超えた”もの“をさらに超えた人ということになる。遭遇することは非常に稀だし、遭遇したとしてもフツーの視野や能力では分かり得ない”もの“がある。
”超えた“、”超えた“というのが分かり難いかもしれない。もし、ピンとこなかったら、物の長さをはかることを思い浮かべればいい。1mの物差し(小さな器)では1mmまでの距離は測れるが1kmの距離(大きな器)は測れない。1kmの物差し(大きな器)なら1kmでも1m(小さな器)でも測れる。ただ、大きな器にとってあまりに小さな器を測る、云々する価値はないだろうが。
2013/9/1