あぶらまみれ違い
中学のときはビートルズだったのが、高専に入っていくらもしないうちにジャズ喫茶に通うようになった。それは親しくしていた同級生に立川のミントンハウスに連れていかれたのが始まりだった。たまにはひとりでと思っても、行けば同級生や先輩がたむろしていた。お世辞にもはやっていたとは言えない店で、高専の機械工学科の溜まり場のようになっていた。高専になっても定額の小遣いがなかった。参考書だとかなんだとかで必要になったら母親に言っていくらかもらってはいたが、ジャズ喫茶代は昼飯のお釣りから捻出していた。コーヒー一杯百五十円か百八十円の時代に百円の金がなかった。
数年後ミントハウスが店じまいして、マスターの弟さんが吉祥寺のメグで働きだした。そこからメグに行くようになって、吉祥寺のジャズ喫茶巡りがはじまった。当時の吉祥寺はダイヤ街とサンロードの周りが賑やかなだけのこじんまりとした街だった。知っている限りだが、そんな小さな街に気の利いたジャズ喫茶が四軒もあった。その名も知られたファンキーに二階のマッキンルーム、ちょっと東に歩いて行けばメグとファミリー。高円寺のAs Soon Asや中野のビアズレーにも足を延ばしたが、ホームグラウンドは吉祥寺だった。
七十二年に就職した会社の独身寮が月明りの明るい柏の外れだった。近場にジャズ喫茶はないかとあちこち探してやっとみつけたのは金町の牛乳屋の二階に娘さんが開いた趣味の店のようなところだった。足を延ばして上野広小路の飲み屋街にいい店を見つけたが、どっちも通うには遠すぎた。しょうがないから月給の二倍近くのオーディオシステムを買い込んだ。独身寮の四畳半のようなところに大きすぎるシステムで置き場に困ったが、そうでもしなければジャズを聴けなかった。金曜日の夜に田無の実家帰っては、退学してしまった親友と出かけていた。
入社して三年後には子会社の輸出商社に左遷されて、五年後には左翼活動でうるさいからとニューヨークの支社に島流しになった。あぶなっかしい英語で右も左も分からないのが毎週のように機械の据え付けや修理に中西部まででかけていた。ばたばたしながらも半年も経てば生活も落ち着いてくる。仕事ではあてにならないが、それなりの給料はもらえる。誰に気兼ねすることもない独り者、一年を過ぎた頃にはマリワナ加えて京都のヤクザとつるんでマンハッタンでの夜遊びが日常になった。好奇心に駆られて普通の人なら絶対足をふみいれないところにまで出ていった。そんなある日、そうだジャズクラブに行こうと思い立った。レコードでしか知らない世界がそこにあると思いだしたら、いてもたってもいられなくなった。土曜日の夕方満を持してVillage Vanguardにでかけた。数々の名演奏の場となったジャズクラブで、ジャズに興味のない人でも耳にしたことがあるのではないかと思うが、目にした光景にはがっかりを通りすぎたものがあった。
Village Vanguard(ヴィレッジ・ヴァンガード)については下記ウィキペディアをご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%89
店の前にできた長い列の後ろについたが、回りの人たちがどことなく観光客のような感じで、話している言葉が何語なのか分からない。赴任して間もない頃、同僚の若いアメリカ人にジャズが好きだと言ったら、そりゃ、おじさんの趣味だと言われたが、事実目の前にその光景が広がっていた。情けないことにVillage Vanguardは観光名所の一つになっていた。
赴任した七十七年はディスコ全盛期で若い人たちはジャズなんかジジイの音楽になっていた。七十七年に公開された映画サタデー・ナイト・フィーバー」が当時の文化を象徴している。Studio54が気にはなっていたが、根っからのオタクでアフターアワーの危ないナイトクラブでしか踊れなかった。車に乗ればいやでもNight feverやStayin’ AliveにYMCAやSeptember、そしてLe Freak やI will surviveがラジオから流れていた。明るく陽気で溢れる生命力に輝いていた。若いころの思い出からそう思うのとは違う、今聞いても屈託のない若い力がみなぎっている。比較の問題でしかないがジャズとは違う、気持ちを揺さぶられるものがある。
たまに思い出したかのようにVillage Vanguardに行っていたある晩、いつものように列に並んでいたら、後ろから小さな声で、「日本の方ですよね」と声をかけられた。
えっと思って振り返ったら、同世代に見える日本人だった。なんのことはない知り合いのような顔をして列に割り込むつもりだとわかったが、人懐っこい口ぶりで知らん顔をする訳にもいかない。海外でひとり暮らしをしていると日本人というだけで話が盛り上がってしまうことある。
その一例を「駐在員と流れ者−はみ出し駐在記(58)」と題してちきゅう座に投稿した。
https://chikyuza.net/%e9%a7%90%e5%9c%a8%e5%93%a1%e3%81%a8%e6%b5%81%e3%82%8c%e8%80%85%ef%bc%8d%e3%81%af%e3%81%bf%e5%87%ba%e3%81%97%e9%a7%90%e5%9c%a8%e8%a8%98%ef%bc%8858%ef%bc%89/
聞けば、もう三年もニューヨークで働いているという。へー先輩ですね。オレはまだ一年ちょっとですよとかたちながらに返したら、「ところでどんお仕事で」と訊かれた。
「毎日あぶら(油)まみれですよ」と傷だらけの右手を開いて出したら、予想以上の笑顔につづいて、
「へー、そうなんだ。おれも毎日あぶら(脂)まみれですよ。たまに火傷もしちゃいますけどね」
何?火傷をするほど高温の油?機械の修理で毎日油まみれにはなっていたが、火傷をするのは半田ごてぐらいで、油で火傷は想像できなかった。
あぶらまみれと聞いて、こっちは機械の修理をイメージしていたが、相手は天ぷらをイメージしていた。それに気がつかずにマンハッタンあるある話に花が咲いて、気がついてみれば列が動いて前の方の人たちが次々と店にはいっていった。
「ところで火傷って、あぶらで火傷するんですか」って訊いたら、
何を言ってんだかという顔で、「そりゃ、跳ねますからね。毎日のことで慣れちゃいましたけど……」
え?跳ねる?何が?あぶらが?と変な顔をしてたんだろう、「ほら海老とかかき揚げとか水分が多いやつは、特にね」
あれ、なんの話してたんだっけ?と思いながら、「オレ、機械の修理でギヤボックスとかばらさなきゃならいことがあって、油だらけになっちゃうんですけど、火傷は半田ごて…」と言って途中で止めた。
相手は日本メシ屋で天ぷらを揚げていて、こっちは機械工場で機械の修理であぶらまみれ。同じあぶらまみれでも、お互いここまで違うとは想像もしないで話していたことに気がついた。改めて顔を見合わせて、なんなのかわからないへんな笑い顔で言葉がつづかない。ひと間違えとは違う、なんともいいようのないばつの悪さは今でも忘れない。
生きていれば色々な人と出会う。そのたびに相手も自分と似たような立場で似たような経験をしてきて、似たような社会観や人生観……を持っていると思って話をするが、大抵の場合は似たようなところより違うところの方が、ささいな違いでしかないにしても、思う事も考えることも、そして望むことも違っていることに気がついてはっとすることがある。そのはっとしたことから、明日の好奇心が芽生えてくることがある。
2025/2/25