トランプ関税―国を挙げての地産地消?

もう五六年も前の話しだが、Webで「グローバリゼーションに対抗するコミュニティ活動」と題したセミナーを見つけて、のこのこ出ていった。グローバリゼーションの向こうを張って?いったいどんな活動なのかと興味深々だったが、出てきたのは地産地消の話しだった。地産地消を否定する気はないが、それでどうやって世界規模で動いている経済活動に対抗できるというか?週刊誌の中吊り広告でもあるまいし、何を大袈裟なとがっかりして帰ってきた。

そもそも地産地消はコミュニティ外の社会とその経済活動の上に成り立っている。ほとんどすべての社会インフラ――学校教育も医療も通信や交通手段……はコミュニティの外から提供されている。コミュニティ活動が上手くいって、自前の社会インフラの規模が大きくなったにしても、規模が大きくなっただけで、自給自足できる社会インフラの領域の広がりには限界がある。コミュニティが自前の農業機械製造工場を持つにまで至るとは思えない。ましてや製鉄工場や自前の石油化学プラントや医療機関や教育機関をもてるようにはならないだろう。

セミナーには驚くことに高等教育の最上位に君臨する某国立大学の経済学部の名誉教授がコメンテータとして招待されていた。まさかコミュニティ活動の限界を口にするわけにもいかないからだろうが、コミュニティ活動をグローバリゼーションの悪弊を抑える活動として讃美していた。招待されたお立場がそうさせるのも分かるし、マルクス経済学の主流派としての立場も分かる。でも、多少刺激のある話をちりばめるくらいの工夫はあってもいいんじゃないかとがっかりした。

グローバリゼーションに対抗とまではいかないにしても、カウンターバランスぐらいにはなるかもしれないと考えてきたが、どう考えても可能性があるようにはみえない。仕事であの手かこの手か?どの手を打つべきと迷ったとき、打った手が当たって成長拡大していったらどうなるか――極限状態を想像して打つ手の是非を決めることが多かった。コミュニティ活動を拡大していったらどうなるのかと思考実験もどきを繰り返していたら、単細胞のトランプが国をあげての政策として実施してしまった。トランプ関税、アメリカで消費するものはなんでもかんでもアメリカで生産しなきゃって、それはまるで国レベルの地産地消――コミュニティ活動じゃないのか?
「アメリカで消費するものはアメリカで製造しろ」って、小学生でも高学年になれば言葉としてしか可能でないことぐらい分かってくる。古希もすぎて頭の近視と乱視もだいぶ進んではいるが、そんなことをしたらアメリカだけじゃなく、世界中が大混乱に陥るであろうことぐらい想像はつく。ニュースをみているかぎりのその想像がまちがっていたとは思えない。

寡聞にしてか最近はコミュニティ活動の話をとんときかなくなってしまったが、グローバリゼーションに対抗などと大仰な話をされてこられた方々、トランプ関税で引き起こされた騒動をどうとらえていらっしゃるのかお聞きできないかと思っている。

p.s.
東京の下町の場末で生まれて、都営住宅の目立つ都下でそだった田舎のない根無し草だが、ふるさと納税のおかげで産直のような恩恵にあずかっている。ふるさと納税の背景にはコミュニティ活動もあるんじゃないかと想像している。コミュニティ活動はコミュニティ活動それ自体で立派な意味のあるものだと思っている。人と人と、人としての関係はいつでもどこでもあるはずのもので、グローバリゼーションを引き合いに出すことがちょっと的外れだったような気がしている。
2025/6/15