救われた人は救う人になる?

年金生活になったとたん、たまに新宿まででかけることがあるだけで電車に乗る機会もめっきり減ってしまった。乗るたび時代の変化の大きさにいいようのない寂しさを覚える。七十二年に就職して毎朝毎晩通勤電車のお世話になった。退勤時間にはばらつきがあるからいいが、朝のすし詰め電車は凄まじく、詰めた寿司が形をとどめようのないものだった。そこで何を見るでもなく窓上の広告と中刷り広告から時の話題を拾っていた。半世紀以上前のこととはいえ、窓上の広告スペースが隙間だらけになるなんて想像もできなかった。

広告のいくつもが私鉄本体や関連企業や組織のものでしかないことも多い。駅員のバイト募集には驚いたが、コスト削減もそこまできたのかと変に関心してしまった。そういう時代なんだろうなと思っていたところに、これはどう解釈したらいいのかという広告にであった。
草原を背にして有色人種の女性が手に手を取り合っている絵に「救われた人は、救う人になる」考え抜かれたキャッチコピーなんだろう。でもそこまで断言されるとみんながみんな、全員が?素朴な疑問から不信感が芽生えてくるのを抑えられない。ちゃちな自分がイヤなる。
救われる、救う。何もしないお前がと言われそうだが、できれば耳にしたくないし、口にする勇気もない。救うという立ち位置にいる人たち、純粋に慈善の心からで細心の注意をはらってそうはならないようにしたとしても救われる人たちの目には施しをしている、なんらかのかたちでに社会的に優位にある人たちと見られるのを避けられないだろう。そして救われる人たちは、施しを受けているという精神的な負い目のようなものを感じることのないようにと心がけても、そういう気持になるのを防ぎきれるとは思えない。施す側のちょっと明るい、施される側のちょっと暗い負い目を感じることもなく、「救われた人は、救う人になる」と言い切る自信はどこから生まれるか?と改めて考えてしまう。

負い目を感じることなく「救う、救われる」状況を作り出そうとすれば、善意や慈悲からの救う、救われるではなく、社会制度として事務的に救う、救われるシステムを作るしかないんじゃないかと思う。ところがそんなシステムが出来上がったら、別の意識の問題がでてくる。救われる方は救われて当たり前と思い、救う側にいる人たちは俺たちの負担で成り立っているシステムを当たり前と思われちゃ困る。何をするにも、何をしてもらうのもタダじゃないという気持が湧いてくるのを防ぎきれないだろう。
じゃあ、どうするのかと自問しても、これだという答えが見つからない。なんとも歯がゆいが、慈善や慈悲も社会的に排除するのは間違いだと思うし、システムは不平等の温床になりかねないから避けるべきだというのにも賛成しかねる。現状でした方がというよりしなければならないのは、どのような組織であれ情報―収支決算を開示することだと思っている。これこれこういうシステムでこれこれこういう予算でと開示されれば、不平等感も減るだろうし、ボランティア組織へ参加も寄付も、本当なのかと疑うことも減る。
巷で指摘される貧困ビジネスがまかり通れば、人と人との信頼が失われ、社会が荒廃していく。

p.s.
『人の善意を食いものにする貧困ビジネス』
https://mycommonsense.ninja-web.net/society20/society20.3.html
2025/7/21