入門書と解説書のお陰で

ここで入文書と解説書の違いを云々する気はない。書名がどうであれ、どちらに分類してもいい本がある。確かに、これは入門書、これは入門書とは呼べない、解説書だという本もある。ただ、どちらか一方だけにすると、どこを境に他方を落として、どこまでの範疇のこととして話を進めるのかという、些細なことが気になる。また、どっちのつもりで書かれたものでも、あるいは、そんなつもりで書かれたものでなくても、読む側がどう読むかでどっちとも言えることも多いだろう。企業小説など、読み方によっては解説本になる。ということで、併記して“入門書と解説書”した。
もともとはガチガチの技術屋だったのが、三十代半ばからいくつもの会社でマーケティングという企業レベルの戦略立案実行部隊を率いて、市場開拓もしなければ立場にいた。そのため、かなり広範囲に渡る技術や市場について勉強しなければならなかった。顧客として、あるいはパートナーとして可能性のあるだろうという企業にアプローチした。そこで、何も知らずして、準備もせずに、ビジネスの可能性があるのではないかと勝手に想像してご紹介に上がったのでは、時間を割いてくださる方々に失礼にあたる。どの世界にも長年に渡って培われてきた技術や業界特有のビジネス習慣がある。巷で入手できる資料や本からいくら勉強しようが、十分な準備ができるわけではない。それでも、人様に時間を割いて頂くからには、できる限りの知識を得る努力をしてからにしなければならない。
知らなかった技術や業界、全く知らないわけではないが、ほんのさわり程度しかしらない技術や業界。気になる技術や業界を支えている基礎にあたる技術や業界。。。知らなければならないと思った一つのことが、その先でいくつにも枝分かれしている。知らないから、分からないから、参考になる本を読むしかなかった。最近では、Webでかなり知り得るようになったが、なんらかの基礎知識を得てからでないと、Web上のバラバラの情報を咀嚼し他の知識と組合わせた再構築が難しい。
既得の知識から遠く離れていればいるほど、入門書の類から入ることにした。入門書を読んで、この技術や業界は当面関係ないと判断すれば、あとは個人的な興味ある場合を除いて、それ以上の深追いはしない。入門書でこれはと思えるものが、ヒントがあれば、その先の本を読む。その先の本が別の視点での、あるいは関連した領域の入門書であることもあれば、学部生が使う教科書レベルになることもある。知らなければならないことがあまりに多く、通常、互いに関連した領域の入門書と専門書を同時並行-通勤中と家-でというかたちで読み進めることが多かった。仕事で必要とする技術知識を得るために読む本は入門書か専門書で、ときたま解説書のようなものがあった。
技術=エンジニアリングを離れてサイエンスや人文科学にゆくと、どういうわけか入門書に加えて解説書がある。仕事には直接関係がないかもしれないが、一社会人として真っ当に生きてゆくために社会そのものが気になった。分からなければと、物理や化学、経済や政治、社会や歴史から文化、哲学。。。と気になってしょうがない領域の本を読んでいった。ただ、いくら本を読んで多少の理解-新しい知識を補充しても、知っていること、分かっていることが知らなければならないこと全体のなかで加速的に小さくなってゆく。新しい知識の補充が未知の領域へのドアを開けてしまう。それまで、全く知らなかった、気にもとめていなかったことが、無視するには重すぎる、未知のとんでもない領域の塊が圧倒的な力で頭の片隅に、一度開けてしまったドアは閉められないとでもいうかように、入り込んで居座る。
それで、新しい領域に関する入門書か解説書からの追加知識の補充作業を始めることになる。時には、專門書を解読でもするかのような読み方になってしまって、どうにも読み切れないことがある。読書の座礁とでもいうのかどうにも動きがとれない。しょうがないので、前に読んだのとは違う視点から説明した入門書か解説書に一度撤退して脳筋力トレーニングを積んでから再チャレンジを試みる。二度三度と再準備して再チャレンジしても、難攻不落な城砦のような哲学書に往生して放りだしたことも一度や二度ではない。放りだしても、「おい、忘れるなよ」と頭の隅にこびり付いて離れない。
入門書や解説書に助けられながら、数十年に渡って知識を補充してきた。終わりのない作業の最初のとっかかりのところで助けてくれる入門書や解説書には感謝している。この類の本なしには知識のいくつかの城門は開けられなかった。
2013/12/1