井の中の蛙

ニューヨークに赴任して約二年、英語も随分慣れた。慣れたといっても出張先によっては四苦八苦することも多かった。南部など地方によってはかなり強い訛りのある英語を話す人も多かったし、工場労働者の英語は放送禁止用語が多く荒れていて慣れれば分かるが慣れたくない類の英語だった。自分の怪しい英語を棚に上げて、相手が何を言っているのか聞き取り難いのは相手の英語の違いによるところが大きいと思っていた。
ミネアポリスから一時間以上西に行った田舎町に出張した。人口三百人弱の町。町に店は雑貨も多少は置いているガススタンドが一軒。周りはどっちを見ても畑。ちょっと走ると美味しそうな牛。一番近いダイナーまで二十八マイル。住んでいる人たちはスウェーデンからの移民の子孫で皆が皆を知っている。ミネソタバイキングスの由来を聞かなくてもバイキングスを納得してしまう。誰も彼もが大きいし金髪にブルーアイ。女性はきれいだが手に余る。
開拓当時のアメリカがそのまま小社会として残っていた。余程のことでもなければ素性の知れない人と合うこともない人たち。見たこともないアジア系が珍しかったのだろう。客先でもガススタンドでも夕飯のダイナーでも遠慮のない視線を感じた。シカゴを超えると話す英語の速度がガクンと落ちる。ニューヨークなど北東部の街で聞く早口の英語よりついてゆきやすい。ところが言われていることは分かるのだが、こっちが言っていることはなかなか通じない。英語を母国語としない人の不慣れな英語を聞いたことがないからなのだろうとあとで気がついた。
出張の目的は大型旋盤の主軸ベアリングの交換だった。構造物全てが大きく、どの部品を外すにも分解するにも客先の誰かの手を借りなければならない。保全担当者が助けてくれたが英語が通じない。身振り手振りを交えて目的と、してほしいことを説明しながらの作業ではかどらない。そうこうしているうちに昼勤の勤務時間が終わって夜勤の人たちに変わった。一人で作業は続けられないと思っていたら夜勤の班長が助けにでてきてくれた。
注)下記ではなんら努力をしなくても誰にでも見える社会や文化、歴史も含めた人々の生活などをまとめて“風景”と、その風景を人それぞれの能力で多少なりとも努力して見えるものを“景色“と呼んでいる。
班長と話をして驚いた。彼の英語は驚くほど分かりやすいし、こっちの拙い英語を苦もなく理解してくれた。何故なのかと思いながら話をしていて分かった。ベトナム戦争に行っていた。イヤな思いをしてきたようで、二度とあんな戦争をしちゃいけないと、アメリカ人らしく笑い飛ばしていた。当時のベトナムの社会や文化が溶け込んだベトナムの人たちが使う英語に慣れ、言葉が言外に意味しているベトナム人が見ている景色まで察する能力が養われたのだろう。
帰還してから英語を母国語としない人とは会っていなかった。十年近く経って初めて会う外国人が日本人のサービスマンだった。ベトナムの人たちが話す英語と日本人の拙い英語ではお国訛りも違えば頻繁に使う単語も違うはずなのだが、相手が言わんとしていることの察しがつく。アメリカ開拓史の延長線にある意味隔離されたような田舎の地域社会で生まれて育った人たちには見ることのないベトナムという景色をみてきてはじめて身につくもので、英語がどうのというだけの話ではない。
彼が身につけたものを単に知識(見識)の広さと言っていいものなのかが気になる。彼が体得したのは広い狭いではなく違う景色ではないかと思う。広い狭いというのは社会や文化も含めてそこにあるもの全てを対象としてはいるが、しばしばそれはある一つの景色のなかでの話に過ぎない。アメリカの田舎の景色しか知らない人たちにとってはその一つの景色から得た知識、それに基づいたものの見方や考え方が全てになる。
アメリカの田舎町で生まれ育った生粋のアメリカ人がベトナム戦争のおかげでアメリカにいてはつかみ得ないもの−ベトナムの風景から知識や見識の基礎になる景色をつかみとってきた。同じベトナムの風景の中に身をおいてもつかみ取る景色は人それぞれだろうが、どれもアメリカの風景からつかめる景色とは大きく違う。この違う景色がもたらす視野や認識の広さは、単一の景色のなかでどれほど広い知識であったとしても、どちらが広いの狭いのと比較しようのない、種類の違うものに思える。
ニューヨークやロスアンゼルスなどの都市にはミネソタの片田舎とはかなり違うアメリカの風景がある。その風景から違う景色が見える。その違う景色が新しい知識や考え方の基礎になる。ただ、違う景色とは言ってもそれはもう一つのアメリカの景色でベトナムで得られた大きな違いの景色ではない。もし、彼がヨーロッパや南米など違う風景のろことに行けば、そこでまた大きく違う景色を見て、新しい知識の基礎を身に付ける。
こうしてみてくると知識が広い狭いというより、どれほど違う景色をみて、そこからそれぞれの景色のなかで広い知識なり見識をもっているのかの視点の方が重要に思える。似たような風景から得られる景色はどれも似たようなもので、そこでの知識は似たような重なりあった景色のなかのものでしかない。
ここでは風景が国や都市によって違うと言っているが、国や都市を会社や職場に、さらに職業的専門分野に置き換えても似たようなことが言えるだろう。幾つもの専門分野の人たちの協調があたり前になったうえに、日本が日本ではなく、世界の中での日本でしかなくって久しいときに、一つの景色か似たような景色しか見たことのない人たちの知識や見識にはかなり厳しい限界がある。“井の中の蛙“?
2014/4/13