違和感や疎外感を求めて

仕事でも個人生活でも出会える機会も人たちも限られている。量的に限られているだけではなく種類(人を種類で呼ぶ、失礼)も限られている。出自も違えば立場も違う。志向も嗜好も目的も十人十色。それでもふつう何かしらの共通点がある。何も共通するものがなかったり、大事にしていることで反りが合わなければ同席することに意味を見出だせないばかりか苦痛ですらある。生き様までいかなくても共通の話題すらないとよくて時間つぶし、別れた後でお互いに変なヤツ、くだらん時間を潰したとイヤな思いだけが残る。私生活なら関係を粗に保ったとしても大した支障はないが、仕事でどうしても付き合わなければならないとなると、よく言う“大人の付き合い”を落とし所とするしかない。
誰しもイヤな思いしか残らない出会いや集いは避けたい。当然だろう。ではいい思いの出会いと集いだけにしてイヤな出会いはできるだけ避けるか、早々に切り上げてしまえばいいのか。フツーに考えれば、Yesだろう。会ったところで、話したところで、できることといえば、空気を読んで波風立てずに時の過ぎるのを待つしかない出会いや集いに何の意味があるのか。ありようがないと誰しも思う。お互いに知り尽くした仲間同士の集い、似通った志向なり嗜好の人たちとの交友関係に限ってしまえば、そこに大人の付き合いの良識もあれば、要らぬ言い合いなど起きないし、イヤな気持ちになることも少ない。
その通りなのだが、ちょっと後ろに引いてみると果たしてそれでいいのかという気がする。似たような志向や嗜好の人たちの集まりで似たような話題に似たような展開が続いて似たような結論に、多少のズレがあったとしても大方は決まっている。あらためて日常の集いをみてみれば、ほとんどが似たもの同士の集まりのような気がする。それは人間が社会を構成する生物である所以、必然と言ってしまえばそれまでなのだが。ただ似たような結論しか出ようのない集いを繰り返したとして、お互いの変わらぬ小集団や組織の一員としての存在の確認する他に何があるのだろう。
似たもの同士のいつもの集いにこそ人間社会のありようの基本がある。反論のしようがない。しかし、人間誰しも一人では社会も組織も構成できないし、高度化し複雑になった社会で社会と関わることなく一人でなんでもやって一人で生きて行ける人はいない。これをちょっと拡張すると“一人では”が “似たもの同士では”になる。考えることもできることも似たもの同士の集まりではできることも限られている。自分(たち)にはない考えや能力を持った人(たち)との協力を通してしか社会に貢献し得ない、あるいは貢献と呼べるほどの貢献はできない。
そう考えると、出自も違えば社会層も文化も価値観も違う人たちとどう渡り合い、関係を構築するかが重要なのではないか。たとえ同じ社会の構成員だったとしても同じ風景から違う景色を見て、違う結論をだしてくる人たち、志向も違えば嗜好も違う人たちとの出会いや集いこそが実は社会を次の社会に推し進める場を作りエネルギーを生み出す。
違う人(たち)との出会いや話し合いには、似たもの同士の付き合いとは種類もレベルも違う精神的な負担が伴う。いくら論理で話をしようにも、噛み合うことのない、どちらも整合性のある理念に基づいての主張だと思っているだろうから、話が通じないこともあるだろうし、いくら話を繰り返したとしても、共有し得る結論が得られるという保証もない。ここでこそ“大人の付き合い”をもう一つ超えたところの一回り大きな大人の付き合いが必要になる。自分(たち)とは全く違う立脚点で成り立っているようにみえる論理の存在を知るだけでも価値がある。
自分(たち)とは違う人たちの集いに参加すれば、そして違いが大きければ自分(たち)の拠って立つところの基盤に疑問符を突きつけられカルチャーショックを受けることもあるだろう。違う人たちの集団のなかでは異物扱いされるだろうし、疎外感を味合わされることにもなる。もし、異物扱いをされることもなく、疎外感もなかったとしたら、違いというほどの違いのない似たような人たちの集いなのか、あるいは感受性に問題があるのかいずれかだろう。
誰しも違和感も疎外感も味わいたくない。味わったところで何か意味のあるものに遭遇できるという保障もない。「良薬口に苦し」ならまだいい。苦いだけで薬効のないものだったり、予想外の副作用に閉口することもあるだろうしアレルギーを引き起こす可能性すらある。でも、そこには新しい発見の可能性がある。
2014/5/4