大事の小事のと言う前に

「大事の前の小事」が気になって調べたら二通りの解釈があった。二通りの解釈が正反対なのに驚いた。広辞苑によれば、「大事をなすには小事にも気をつけて油断してはならない。」と「大事をなすには小事は無視してもやむを得ない」の二通り。無教養ゆえ、後者の解釈があることを知らなかった。
自分の無知を棚に上げての恥ずかしい話だが、前者の解釈、長きに渡って人をミスリードしてきたのではないかと思う。卒業して就職した会社で先輩に前者の解釈を元に指導されたこともあって、随分経ってから後者の解釈の重要性に気づいた。
仕事では大事と小事を切り分ける能力が問われる。誰も有り余る時間と能力をもっている訳ではない。事を先に進めるには前者の解釈−日本人にありがちな几帳面さ−を振りきって後者の解釈で推し進めなければならないことが多い。前者の解釈はたとえ些細な事でも無視しないという日本人の道徳観を満足するものがある。まして、その道徳観に引きずられて小事に時間を割けば、確かに目の前の課題が一つひとつ解決されてゆく。解決されれば達成感もあるし、日常の小事にバタバタしていれば仕事をしているという充実感もある。
小事の多くが日常業務そのもので、それだけで時間も能力も消費される。小事に追われれば、大事に手をつける精神的、時間的余裕がなくなる。大事に手をつけるにはそれなりの準備もあるし、組織内の根回しも必要になる。この前作業に割く時間や労力だけでも多くの小事が解決される。大事は、今日、明日に手を付けなくても日常業務には支障がない。また、手をつけようにも、即付けられるものでもなければ、手を付けたからといって今週中や今月中に目処の立つたつ類のものでもない。
大事に取り掛かるには、周到な準備や計画が欠かせない。多くが個人の能力だけでは始めることすらできない類のもので、日常業務に埋没して流されれば、いつまで経っても手をつけられない。小事を処理する日常のなかに大事はなじまない。小事の日常が優先され、先延ばしになる。小事を放っておけば関係者から催促もあるし、あまりに処理が遅れれば日常業務に支障をきたす。大事にとりかかる準備段階では周囲の目には大事にとりかかっているようには見えない。周囲からは日常業務をサボっていると非難されかねない。曰く、今日なくして明日はない。今日明日なくして来期はないという、よくある近視眼的主張が実のある説得力を持ってせまる。
大事は、組織における自らの政治生命を賭け、万難を排してでもというくらいの気持ちがないと始まらない。周囲からどのような非難を受けようが、社の、組織の将来のために小事を捨てる勇気と強い意思が求められる。そこまでの覚悟がなければ、はなから大事など手を付けない方がいい。大事をなそうとすれば必ず弊害がでるし、人も傷む。それをおしても成す価値のある大事なのか、本当に大事なのか。成そうとして成し得る大事なのか。成し得る環境を用意できるのか。大事が大事過ぎて成さなければならないことがあまりに漠然としている、見えるものの解決にまでしか考えられずにその見えるものの原因となっているものまで分からずに大事と言っていないか。
誰がどのようなリスクを背負って、誰と協力して、誰のどのような、どこまでの負担や不利益を許容するのかまで検討し尽くした大事はなかなかない。 誰も限られたリソースと時間のなかで将来まで見据えた最善の策を講じようとしているはずなのだが、往々にして一部の組織や人たちの保身やエゴのために、その他の人たちの負担や不利益を考慮しない大事が多すぎる。そもそもはなから何が大事で何が小事なのかの判断が怪しい。
大事だ小事だと言う前に何が大事なのか、何がそれを大事としているのか、誰のとっての大事で、誰の負担で大事を成そうとしているのか、大事を大事として取り組む能力があるのか、よくよく考えてみた方がいい。
2013/12/1