都合のいいところを(改版1)

自分が一体なんなのかを自分に説明しようとするが、出来そうで出来ない。自分のことを誰よりも一番よく知っているはずの自分が自分のことを説明できない。周囲の人たちとの埋め切れない溝に疲れると、自分は一体なんなんだという不安を抱えた疑問が湧いてくる。迎合するのも嫌だが、情けないことに疎外を楽しむ勇気もない。頭のなかで自分とはと考え、説明もどきをし始める。始めて直ぐに行き詰る。一つのことをこうだと確認しようとすると、その反対のことが浮かんでくる。一面があれば必ずと言っていいほどその反面がある。元気なときと落ち込んでいるとき、大笑いしているときと怒り心頭に達しているとき、上司にいびられているときと部下に自慢話を咲かせているとき、同じ一人の人間でも別人のようになる。
人間、説明がつくほど簡単じゃないということなのだろうが、自分で自分が分からない。じゃあ、自分で分からない自分を他人はどうやって評価しているのか。あの人たち、この人たちは自分をどんな人間だと評価しているか。評価するほど分かるはずがないのに評価している。その評価、そりゃない。そう思われては心外というのもあるだろうし、そこまで買いかぶられても困るというのもあるだろう。
自分で分からない自分を他人がどうして評価できるのか。ちょっと考えると興味深いことに気がつく。他人には人の表層とでもいうのか、見えるものしか見えない。見えたものを見ているだけで、見えない内面までは見えないし、たとえ内面の一部が垣間見えたとしても、注意深い人でなければ気がつかない。あるいは気がついたとしても、人を評価する上でのデータではなくノイズとして捨てる。もし、ノイズではなく、それを真の評価のための貴重なデータと考えだすと、さらなるデータ収集に踏み込み、見えるものと見えない、隠れているものの相反するデータの扱いに困る。言ってみれば自分で自分が分からないという状態に多少なりとも近づいて、それが行過ぎれば断定的な評価をし得なくなる可能性すらある。
人は他人の見たい部分に注意を払う。自分に関係のない、興味のない部分を景色のように扱い、他人を評価する際考慮に入れない。言ってしまえば、自分に関係する見たい部分だけを、それも特徴的に表層に出た部分だけを取り上げて人を評価する。見たいものしか、見えるものしか見ないで、それも自分の思い入れのフィルターを通して人物像を勝手に描いて人を評価する。突き詰めて考えると、あまりに安易、お互いに相手に対する最低限の尊重の念があるようには思えないという、ちょっと厳しい言い方になる。
最低限の尊重どころか人をブランドなど第三者の評価をもとにしか評価し得ない人たちまでいる。そこまでゆくと評価という次元にすらならない。それは第三者の評価であって、今人を評価しようとする、しなければならない立場にいる人の評価ではない。あらためて例を上げるまでのことはないと思うが、ここでいうブランドとは卒業校や社名、役職や肩書などを指している。
人類の長い進化の行き着いたところが表層での人の評価。ここに至るまでの時間を考えると、この先この安易な評価の仕方が進化するとも思えない。好き嫌いではなく、これが今の、当分先までの人の能力の限界ということになる。ここで一歩下がって、この能力の限界について考えると、これまた面白いことに気づく。いくら手を尽くしたところで相手は、自分の見たいところを見たいように見るだけで、手間暇かけて隠れた内面など見ようとしない。実は人々はこの能力の限界を逆手にとって人と付き合っている。
自分の自分をさらけ出したところで分かりっこないのだったら、いい面だけをという気になる。マイナス面に注視されてもろくなことはない。さらけ出すとしても、何をさらけ出すべきなのか、自分で自分が分からないのだから晒すべきものも分からない。いっそのこと、自分の都合に合わせて、相手が見たいと思っていることを想像して相手が見たいように自分の一部だけを、しばしば誇張や化粧すらして見せることで、相手に買いかぶりのいい意味での誤解を誘うことを常としている。
事実が事実としてあるのではなく、事実のどの部分を人が事実と思うかでしかないことを考えると、実にまっとうな、それはもう処世術とでも言うべきものになる。自分の都合で見せたいものを見せる。自分の都合で見たいものを見たいように見る。まるで狸と狐の騙し合いのような気もするが、これが人間の人を評価する能力ということに他ならない。
とすると世間一般で高い評価を受けている人たちとは、実は意識してどうかは別としても狸と狐の騙しあいの術に長けた人たちということになりはしないか。そうは思いたくないのだが、軽佻浮薄に流れるのも世の常、ときには思ったほうがいいのかもしれない。
2015/2/15