資質から能力へ(改版1)

“能力”と“やる気”のどちらを重視するかという話、視点のズレが気になって『“能力”と“やる気”』に愚考をまとめた。その直後にプロの数学教師から興味深い意見を聞いた。教師といっても身分保障のある学校の先生ではない。高校と大学受験の進学塾の教師で長年能力だけで禄を食んでこられたプロの先生。学校の先生以上の教えるプロとしての現場の実感とそれに基づく考えを聞いた。日本のトップの大学を卒業した、フツーに行けばピカピカのエリートのはずの人が、フツーの会社員の道を避けて塾の先生をしてきた。話は巷のかたちながらの教育論を超えていた。言われてみればその通り、一般常識のような話なのだが、それを超えた説得力があった。
教育業界も組織化されていて、数学の問題は学習塾の教室に供給される。個々の学習塾の教室の先生は、どのような問題が出てきても、生徒の前でさっさと解かなければならない。生徒の前で、問題に手こずるのは許されない。「うーん、解らない。」はもっての外。最近は本当にひねった面倒な問題が多くなっているので、油断はゆるされないと言いながらも、伊達に長年数学の教師でメシを食ってきた訳じゃないという自信がにじみ出ていた。
高等数学、といってもほんの入り口あたりのもののはずなのだが、学生時代にはかなり苦しめられた。真面目に勉強していたつもりだが、しばし証明問題には歯がたたなかった。三日も四日もかけて、どうにもならずに放りだした。それを、いとも簡単に、「数学は誰にもできる。一言で言ってしまえば慣れですよ。」と言われた。そりゃ、数十年、数学を専門としてきている人にとっては、慣れなのかもしれないが、巷のフツーの者、それでも一応は技術屋の端くれにとって、ただの慣れと言われても納得できない。そりゃないでしょうと言い返しながら、先生の常識論が続いた。
先生によれば、人様々だろうが持って生まれた資質に大きな違いはない。少なくとも受験問題に出てくるような一捻りした面倒な数学の問題を解く能力を身につける資質は全ての人が同じように持っているそうだ。そう言われても学生時代を思い出せば、まともに勉強していないにもかかわらず数学だけはホイホイとやってのけるのが何人かいて、こっちは一所懸命にやってるのにどうにもならなかったイヤや思い出がある。同じように持っていると言われて、そうですよね、あるいはそうですかねという相槌を打つのも実体験に合わない。お追従しなければならない立場でもなし、そうは思えませんよと実体験を話した。
先生によれば、「人それぞれ違う様々な資質を持って生まれている。持って生まれた資質のどの部分に、あるいはこの部分とあの部分と。。。にトリガーがかかって資質が開花してゆくかどうかの違いに過ぎない。資質のどの部分にトリガーをかけられる環境なのか状態なのかによって、開花が違うし、開花した資質が次の資質の開花のトリガーになって開花の連鎖が起きる。なかにはこっちの資質が開花すると別の資質の開花を抑制することあるだろう。開花した資質に努力が積み重なって能力と呼ばれるものに成長してゆく。」
数十年に渡って数えきれない生徒に数学を教えてきた経験からの話で、個人が個人の体験からの話ではない。個人の体験からは納得できないのだが、先生の話に反論する根拠が自分の体験からしかない。なんとも反論し得ないだけでなく、余程天性に恵まれたか、その逆でもない限り、人の能力は似たようなものである、あってほしいと思う気持ちもあって、反論したくない、納得してしまいたい誘惑にかられる。全ての人は間違いなく生まれながらにして同じではなく、生まれた時から不平等のもとに生きているはずと思う。これはこれで間違いではないはずなのだが、多くの様々な資質を上手に開花してゆければ、ほとんどの人たちは日常の社会生活を送るにも、特定の職業の専門家として生きるも可能な、似たような資質を持って生まれて来ているはずと信じているし、信じたい。
違いは持って生まれた資質をうまく開花できる、させてもらえる環境を得られるか、あるいは与えられた環境を自ら、あるいは周囲の人たちの影響や支援を借りながらも、資質の開花に結び付けられるかの違いのような気がする。持って生まれたものは資質であって、能力ではない。資質が全てを決める訳でもない。資質の開花とその開花から能力に育て上げる努力と環境の先に能力がある。さらにその先にその能力を何にどう活用するかという、これも資質に絡むのだろうが、生き様に関わる資質と能力がある。誰もあるものしかない、隠れているかも知れない資質を開花させて、能力にまで成長させるのは、結局自分しかない、自分のやる気しかないということなのかもしれない。
2015/3/11