専門性と汎用性

今更何をという話だし、資質や能力、志向や置かれた状況も人(企業)もさまざま、いくら考えたところでこれといった一義的な答えがある訳でもない。仮にフツーの人たちに積極的ではないにしても一般論として納得して頂ける答えがあったとしても、個人個人の状況の違いよる違いがある。考えることに何の意味があるのかと思う。ただ、巷でよく耳にする競合回避−専門性重視と汎用性軽視の話を聞いていると、基本的な二つの視点でズレがあるような気がしてならない。ちょっと整理しておくことにもなんらかの意味はあるだろう。
第一に、広い意味での能力を専門性と汎用性の二つに分類するにあたって、専門性と汎用性がそれぞれ何を意味しているのかはっきりしない。本質的にはっきりしようのないものなので、議論を進める上での必要から分類しているにもかかわらず、巷の議論、一義的に分類できるものとしているようにみえる。
職業人として禄を喰んでいるであれば、その職業として専門性があるとするのも一概にあっているとも間違っているとも言いがたい。乗用車の運転が好き、上手というのとF1のレーサー、トラックの運転手として、あるいはタクシーの運転手として生計を立てているというのは本質的に違う。後者には当然プロとして求められる資質や能力がある。では前者を汎用性−かなりの人たちが普通運転免許をもっているのを汎用性の範疇にいれて、後者を専門性の範疇に入れればいいのか。後者を一律に専門性とするのに多く人が疑問を感じるだろう。ただ、ちょっと見ると特別な専門性があるように見えない職業にも、職業というからはそれなりの専門性があることがあることを忘れてはならないだろう。こうして考えると、何を持ってして専門性というのか、あるいは専門性と呼ぶべきなのかは、置かれた立場や状況次第で変わるということに他ならないといことに気付く。
次に多くの主張が、この両者の排他性−こっちかあっちの一方だけから捉えた議論というのか主張が多すぎる。秀でた専門性を強みとしている企業や個人を念頭においた話からなのだろうが、秀でた専門性を活用するには、その専門性の周囲の専門性。。。最終的には周囲の汎用性に分類されるであろう能力が必須であることを忘れているように聞こえる。
そもそもなぜ専門性と汎用性が話題とされているのかを考えると、両者の定義のあやふやさもさることながら、どちらに注力した方が個人としてまた企業として経済的、社会的に恵まれた立場にいられる可能性が高いかという視点につきるようにみえる。この視点での話であれば、専門性と汎用性という分類をコモディティ化した、し易い能力とし難い能力に、あるいは代替し易さと、し難さに別け直した方が多少なりとも分かりやすい説明がつきそうな気もする。
汎用性をコモディティ化した能力や製品、サービスと置換えれば、多くの人たちが専門性の優位性を思う気持ちが分かる。コモディティ化とはいつでも代替え品で置き換えることが可能であることに他ならない。その結果として厳しい価格競争、コストダウン、付加価値の低下と利益率の低減を避けられない。これを避けたいがために専門性に視点がゆく。
では、専門性の優位性とは何かのか。コモディティ化の反語から考えれば、代替えがない、あるいは得にくい能力、ポジションの保証がある能力ということになるだろう。それ故、経済的にも社会的にも優位な位置に立てるというが一般的な考えだろう。しかし、そこにそこそこ魅力のある需要があれば、科学技術の進化が必ず専門性をコモディティ化してきた。どのような専門性であったとしても、コモディティ化する価値のある需要があれば、必ずコモディティ化されてきた。なかには政治的に既得権益を保護してコモディティ化しないようにしてきたものがないわけではないが。これは政治と社会が作り出す例外でしかない。ただ、コモディティ化されれば、即その市場では競合し得ないと考えるのはあまりに短絡過ぎる。コモディティ化されたときこそ企業としての最終的な能力−リーンオペレーションをし得るかという真価が問われる。
企業としてはリーンオペレーションという競争の戦場を求めることもできるが、個人としてはその能力がコモディティ化されれば苦しい。置き換え可能でしかない能力が大きな付加価値を生み出す可能性も少ないだろうし、経済的、社会的にそれなりの立場にはいられない。では、専門性に解決の出口を見つければいいのかというと、これもそう簡単には言い切れないところが悩ましい。
科学技術の進歩と産業化が専門性を必要とし、専門性が科学技術の進化と産業の高度化を促進してきた。その相互作用が加速し、以前花型であった専門性が陳腐化する、極端な場合には不要となった。加速的に専門化が進み、専門家として生きようとすれば、特定の限られた領域に特化した専門家でしかあり得なくなった。ここで二つの本質的なジレンマが生じる。特定の限られた領域であったとしても、その領域の専門家への需要があれば、必ず供給が生まれる。専門的の能力を活かせる領域が産業として成長すれば、需要も増える。需要が増えれば供給も増え、程度の違いはあるにせよ、能力のコモディティ化が始まり、代替可能になってゆく。
専門家がコモディティ化の危険に侵されることのない専門家でありたいのであれば、需要の少ない領域−供給の増えない領域に特化せざるを得ない。この特化は需要の少ない領域−一般的でない領域への特化のため、専門家はその領域以外では専門家として職にありつける可能性も少ない。専門性を極めれば極めるほど職業の自由から遠ざかる。社会の変化によって、そのニッチの専門家の需要が消滅する可能性がないわけでもない。消滅しないながらも、もし需要が減れば、専門性を極めたが故に使い回しの利かない、他の分野では使いようのない専門性になってしまうこともあり得る。江戸末期の朱子学を思えばいい。そう考えると、果たして専門性を極めることにどれほどの経済的、社会的優位性があるのかという疑問がでてくる。
巷の専門性と汎用性の話題に対するこれといった回答はないが、それでもまあ、この程度のことは言えると言えることをリストアップすれば下記になる。
1)  何が専門性で何が汎用性かは、置かれた立場と状況次第で変わり一義的に決めるのは難しい。
2)  どちらに特化したとしても競争相手に対する優位性を得られる可能性がある。
3)  専門性を極めれば職の自由度を失う。
4)  そこそこ極めた専門性とその専門性を活用する汎用性の組み合わせこそが市場優位を可能にする。
5)  4)でいう汎用性は専用性の如何にかかわらず必須。汎用性とは、これなしに専門性もその力を発揮しにくいという能力のこと。
汎用性には、物事を論理的に思考し、相手に伝える能力からはじまって、今や国際共通語になった感のある英語での意思疎通、コンピュータ活用知識などがあげられるだろう。
2014/1/19