問題を背負い込む人

問題に対する姿勢からみて両極端な人たちがいる。問題の“も”の字の影や臭いに気が付いた途端、我先に逃げようとする人たちと反対にそれこそ大げさに言えば金を払ってでも解決に人肌脱ぎたいと思う人たち。フツーの人たちは程度の差はあれ前者−状況次第で逃げられるか逃げそこなうかで、真摯に対処しようとする人は少ない。人間誰しも余計な苦労はしたくない。問題、誰かに任せられるなら任せてしまいたい。偽らざる心情だろう。
後者のような人が希なことと、できれば誰もわざわざそんなことはしたくないと思っていることもあってか、そのような人にはあったこともないという人が多いかもしれない。確かに金を払ってまでというのはないだろうが、親しい仕事仲間や長年の友人が困っていれば、フツー誰でもそれなりに親身になって相談にのる。こうしてみると、程度の差はあるにしても、後者に近い人もそれほど稀有な存在でもない。
人それぞれ、出自も違えば置かれた立場も違から、一方的にどちらが良いの悪いのということでもないかもしれない。ただ、それでもフツーのサラリーマンとして安寧な生活を望むのであれば、できる限り上手に前者でいられるようにした方がいいというのが一般的な考えだろう。
トラブルの多くが個人のミスからでなく組織的な欠陥から起きるべきして起きていることが多い。そのためトラブルを解決しようとすれば、組織内だけでなく、関係する組織と組織、人と人たちの間を走り回ることになる。走り回れば、それを社のため、組織のためと思ってくれる人ばかりではないことに嫌でも気づかされる。自らの、自らの組織が問題の根源であるとたとえ内心では思っても、組織防衛のために他者に押し付けるのを当たり前のこととしていることが驚くほど多い。そのようなところで問題解決を試みれば必ずその組織で生きている人という障害に遭遇する。問題を解決しようとすれば遭遇した障害を乗り越えるか押し破ることになる。これをやれば感謝する人たちより厄介者だと思う人たちの方が残念ながら多い。
自分たちが問題の根源であるにもかかわらず、自分(たち)が生み出している問題が存在することを認めず、また認めたとしてもそれは自分たちが解決しなければならない問題ではないとして他者に押し付けるのを常としているところでわざわざ面倒を背負い込んで、四苦八苦した挙句に嫌われる。なぜ、そこまでするのか。血と言ってしまえばそれまでにしても、そこまでやることで自己満足以外になにか得るものがあるのか。
ここで一歩下がって人の能力はどのように形成さるのかを考えると、わざわざ苦労して嫌われるというのがまんざらバカげたことでもないことに気づく。 人の知識の出処には大きく二つある。一つは直接体験したことによって得た知識。もう一つは何らかの方法−間接体験によって得た知識。間接体験には人から話を聞くというのもあるし、本やテレビ、Webなどで知るのもある。問題が起きた時に、問題に対処する責任があるにもかかわらず、できるかぎり他者に押し付ければゴタゴタの中に身を置くこともない。痴れ者の上司の目には仕事をマネージメントできているとして評価されることもあるだろうし、厳しいところにいないが故に落ち着いたいい人のようにも振る舞える。しかし、それで将来の成長の礎とし得る経験、そこから得なければならない知識が得られ、精神的体力を培えるのか、人としての成長が可能なのかと問えば、答えは間違いなく否だろう。
戦略がかつておきたことを整理したケーススタディの集積であるとするならば、できるだけ多くの問題に遭遇し、問題解決に奔走してきたか、その奔走のなかから何を体得し、体得したものを消化吸収して使える知識に知恵に昇華したかでしかない。たとえ当事者でなかったとしても、相談相手として積極的に相談にのりに出てゆけば、間接的な直接体験をし得る。そしてそこから何か多少なりとも価値あることを学べる。
こうして両者のどちらがいいかと考えてくると、わざわざの後者の方がいいという結論になりそうだ。しなければならない組織や部署がしないことをした挙句に関係者に鬱陶しがられ、煩がられ、嫌われ、痴れ者の上司からは問題児扱いされ、周囲の同僚からは変わり者扱いされて疎外される。肉体的にも精神的にも疲れるし、しばし自分でも何をやってるだと思いながらもさせて頂けるうちが花とでも思ってさせて頂けば、将来的には必ず報われる日がくる。問題も課題もできれば引き受けた方がいい。
2014/2/16