学ぶまでと学んでから(改版1)

市井の一私人、困った会社から会社へ渡り歩きの傭兵稼業。仕事といってもどこにでもあるフツーの仕事。お会いできるのも世間一般のフツーの人たち。どなたもフツーの人たちなのだがそれぞれお持ちの知識や能力も違えば指向も違う。違ってあってあたり前なのだが、改めて何が違うのかと考えると、それは量とか質とかでは説明しきれないもっと本質的な性格のようなもののような気がしてならない。もっとも、それはこちらが知り得る理解し得る範囲での話しに過ぎないのだが、その限界というのかバイアスを承知の上である特徴のある人たちのありようが気になって考えてきた。
七十年代の前半に米国の西海岸の大学に博士課程で留学した方から興味深い話をお聞きしたことがある。日本の大学なら二年もやればほぼ自動的に修士過程を終了できるし、そのまま博士過程もなんとかなると思うが、米国の大学ではそうはゆかなかった。学ぶというのは先人の足跡を辿るこのが主な作業になるが、いくら学んでも自分の足跡にはならない。自分の足跡を刻めなければ米国の大学では修士、ましてや博士への道は開けない。
随分時間をかけてチャレンジしたが、学んだ先に何をどうしたらいいのか分からなかった。どうしたら自分の、独自のものを切り開けるか分からなかった。日本人があまりに学ぶということに専念してきたがゆえに、学び過ぎというと語弊があるが、学んだ先のことに無頓着いうか学んだ先に何をどう進めてゆくのかという考えや、何を先に進めるために学ぶのかという手段と目的の転倒、それを考える能力開発のありようというのか必要性にすら気づかずにきてしまったのではないか。
彼の話を聞いて数年後、米国の経済学者が何かの本で似たようなことを言っているにでくわした。うろ覚えだが大まか次のように言っていた。もし学生が図書館に閉じこもってできる限りの経済学に関連した書物を読もうと思っていると言ってきたら、大学というところはそんなことをするためにくるところでもないし、そんな学生を求めてはいない。自分の専門領域における独自の課題を考えなさいと言うだろう。
似たようなことはプロの棋士の世界にも言える。インターネットの普及のおかげで情報は行き渡っている。プロの棋士やそれを目指す人たちは定石や歴史的な対局から最近の打ち手まで過去のものは全て知っているというより共有している。プロの棋士の対戦で誰でも学べる定石がそのまま使われることはない。誰もが知り得る知識−歴史的な遺産を習得したところでプロの棋士としては通用しない。問題はその先を切り開けるかにある。
巷では学んだことを実社会で応用し、学んだことの先に新たな知見を積み上げる作業が営々と続けられている。応用する過程で新たに学ぶことも多いが、それは研究者や学者が専門分野で求められることとは大きく違う(はず? )。ところが研究者や学者先生のお話をお聞きいていると、歴史探訪の世界に迷い込んだような気がしてくることがある。
先人の足跡を辿ることを研究領域としている先生方がいらっしゃる。浅薄な素人考えのせいでしかないとは思うのだが、どうもしっくりこない。比喩として適切とは思わないが『奥の細道』を使わせて頂く。芭蕉の『奥の細道』の道程を詳細に調べてみたり、道程の周辺やら背景やら、歴史や文化。。。その一部を探索したりで奥の細道の内に留まって、その先には進まない。先人の足跡とその周辺を詳細に調べて、それはそれなりに何か新しい知見とやらも出てくるだろう、あるいはひねり出せるだろう。それが学問として、学者としてのあり方だと言われれば、学者先生がそうおっしゃってるのだからそうかもしれないと思う一方でそりゃないんじゃないかという気持ち残る。
それは知識というものの本質的な性格にあるのかもしれない。知っていることは知っていることに過ぎない。知っているのはいいがだからどうしたということに気がつかずか、知っていることを増やすために学ぶ。しかし、学ぶことに専念するあまり知ってどうするというもっと大事な考える能力を育てることに気がつかないままきてしまっているのだとしたら、巷のやぶにらみのお節介だがちょっと寂しくないか。
知識としてなら専門書にしか書かれていない知識でも基礎から根気よく読んでゆけばほとんど人にとって手の届かないところにあるものではなくなった。Webも充実してきたし、巷の日常に毛の生えたくらいの範疇のことであれば誰でも知りうる時代になった。知っているということの重要性が薄れてきたとは思わないが、知っているというまでであれば、極端に言えば誰でもたどり着ける。知っているというレベルに達するために学ばなければならないが、それが次の全く性格の違う段階に至る可能性や能力の開花を妨げているような気がしてならない。誰も全てを知り得ない。知り得た知識と知識を組み合わせて、時には要素に分解してから再合成して、そこに新しい知見をからめて新しい領域を切り開くプロセスを生み出す能力は歴史遺産として引き継いだ知識を学ぶことまででは培えない。
見たところ五十代半ばくらい、道を極めた感のあるフランス料理のシェフがあるテレビ番組でさらってと言ったことがことの本質を言い当てているような気がしてならない。無国籍料理を追求して何年にもなるが、これが難しい。フランス料理は学べるし、学んできた。無国籍料理にはそれがない。なんの規定も規制もないかわりに何かに沿ってという沿うものがない。道のないところに自分の道を作っていくような。。。
2014/9/7