教授の本

どの分野でも教科でも定番となっている教科書や参考書がいくつかある。当然そこには学ぶ側のレベルに合わせてそれぞれの段階での定番がある。歴史のある分野や領域であれば出版されている本は多いがそれでも歴史に洗われ評価の定まった本があるし、黎明期にある領域ではもともと出版されている本が少ないこともあって定番が決まってくる。
高校までは文科省の監督の下、使う教科書からその使い方まで規定されている。これが一歩大学に入ったと途端なんの規定も規制もなるくなる。役人の規制などを受けることなく有意義な講義を自由に進められるのはいいのだが、何らかの規制がないといろいろな意味でだらしなくなりかねないのが人の常だろう。なかには規定による制限があった方が活きる性格の人たちさえいる。個人的にはちょっと寂しい気がするが、通勤中の私服から制服に着替えるとなんとなく身が引き締まる思いがするという話を聞いたことがある。似たような話はどこにでもあるし、それを聞いて全面否定する人はそれほど多くないだろう。ということはだらしなくなりかねない自分自身について、たとえ可能性にすぎないにしても多少なりとも不安があるのか、あるいはだらしなくなったのを見たことがあるからだろう。
時間をかけて精査され定番となっているということは、内容はしっかりしていたとしても時間的に遅れていることを意味している。書物として出版され読者が手にして読むまでには時間がかかる。たとえ書籍が電子データとしてWebで公開されたとしても書く人から読む人までには時間がかかる。
教授ご自身が書き起こした本を講義で教科書として使っているのを散見する。これは定番となっている本では目の前に提示された新しい知見が包含されていないことや、ご自身の講義のプロセスに合わないなど、純粋に学問上あるいは講義の有効性など妥協し得ないからだろうと想像していた。
一個人の直接体験に過ぎない。統計処理でいうところの外れ値でしかないかもしれないという不安がある。ただ外れた本を異なる分野であっちで一冊、こっちで一冊とみると、お人好しにもこうだろうと思っていたのとは大きく違うとし思えない。どの本にも今日の定説を覆し次の高みに一歩踏み出すような記述が見当たらない。新しい知見をもってして今までの定番を塗り替え、次の時代の定番になる可能性のある本ではない。
ざっと目を通した限りではとても時間をかけて読むに値する本には見えない。単位が必要な学生でもなし、貴重な時間を一教授の思い入れにつきあわなければならない理由はない。どう見てもその教科書、よくて才能や能力に比べてちょっと度を超えて我の強い教授が自分の存在を主張するために出版したか、あるいはもっと直截に金儲けを目論んで出版したとしか思えない。よほどの方でもない限り自分が学会の流れを大きく変えて主流を構成する能力があるとは思っていないだろう。もし心底そう信じていて並の神経の持ち主だったら学会で認められない自身の不遇、社会の不条理にそうそうに精神障害を起こしかねないと心配してしまう。
定番に対抗して自説を掲げた本を出版し、それを多額の授業料を払って聴講している学生の教科書に使うほどの自信家であればこそできることなのだが、フツーに考えれば定番となっている教科の対抗書として他の先生方も教科書として採用するか副読本として学生に薦める流れができるはずと自惚れの強い先生だったら考えるだろう。ところがどこからもそのような兆候が出てこなかったら、自惚れ先生、愕然とするのだろうか。
そのような話、あるのだろうが寡聞にして聞いたことがない。ということは出版は定番に対抗するようなことも考えていないし、他の先生が採用するようなこともありえないことを分かっていての出版でしかないことにならないか。出版することによって己の学識が大したものでないことを公知する、恥をさらすことになりかねないくらいことぐらい、多少なりとも常識のある先生なら想像できるだろう。それをあえて出版する。何のための出版なのか。部外者なので分からない。できるのは想像だけ。できる想像からだが、それは恥を恥とも思わない、そこまでの良識に欠ける先生の個人的な金儲けでしかないのではないか。それ以外にどのような可能性があるのか。知識が足りなくそれ以外の想像がつかない。
何の規定も規制もなし、講義では言いたいことを言って、自分が書いた下手すれば三流どころか流もつかない、ご自身以外の先生が教科書として使うことのない教科書を学生に毎年ほぼ強制的に買わせて。。。としたら、何の先生なのか、そこには聞く価値のある講義もなければ読むに値する本もないだろう。全ての教授が自分で自分を律する能力を身につけているとも思えない。規定や規制、時には力による強制によってしか活きられない人たちもいる。最高学府である大学も例外ではないということだけなのだろう。
2014/9/7