健康と美白-差別(改題)

どちらも日常的に目にもすれば耳にもする。特段の注意もせずに口にもする。そこそこの年齢になれば誰もが気にかける。フツーの日常語だが前者は時と場合によっては人としての信頼を失いかねない差別用語に、後者は常に差別用語の可能性が高い。後者は女性向けの雑誌や広告で差別用語になりかねないなどということを考えたこともないかのごとく使われている。
三十中頃一緒に仕事をしていた技術屋の一人に足がちょっと不自由なのがいた。見る限り日常生活に支障はなさそうなのだが、立ったりしゃがんだりは手で膝を押さえてよいしょっという感じだった。ある大手工作機械メーカーに出張にだしたら、お前のところは身障者をよこすのかと苦情がきた。訛りの強い無教養を丸出しにした言い草にむっとして、そうですよ、経験豊富で几帳面な技術屋として派遣したんですけど何か問題でもありますかと言い返した。彼が日常的に近くにいてくれたお陰で努力では補いきれない何らかの障害を持っている人たちを気にして、言葉の使いようを注意するようになった。
何人かで昼食に出かけたとき青信号の点滅が始まった。渡ってしまいたいからみんなが駆けた。渡り終わってみんなでないことに気がついた。一人ぽつんと横断歩道のあっちで信号が変わるのを待っているのを見て、みんなバツの悪そうな顔をして信号が変わるのを渡った先で待っていた。
それから二十年も経って米国系コングロマリットの研修会でエリートのつもりでいる三十代中頃の人たちがあまりに無造作に健康と言うのを聞いて驚いた。五十人くらいはいたと思うのだが、仕事の場で英語を使えない人はまずいない。おそらく全員が何らかのかたちで米国かどこかに滞在したことがある。帰国子女が何人もいたし、米国で教育を受けたあるいは留学経験者が特別な存在ではない集団だった。
どうでもいいお仕着せの研修が進んでいく中で、この講師、大丈夫かというセッションがあった。講師が何を大事に思っているか、人生にとって何が大事かと一人ひとり聞いていった。講師に指されてみんなが大事と思っていること−ポッと聞かれてパッと答える程度の軽さで色々でてきた。健康、家族、友人、余暇、キャリア、ライフワークバランス(女性陣の間で流行りの言葉)。。。若い人たちの集まりなのにフツーに考えると何故と思うほど健康が多かった。そこには健康さえ崩さなければ自分の将来は間違いないと思っているエリートのつもりの連中によくある無理を避ける生き方がにじみ出ていた。
健康を上げるのは個人の自由、誰も止めやしない。エリートのつもりも結構、しかし、もしその五十人のなかに何らかの障害−努力では補いきれない障害を持っている人がいたらなどと考えることもないのか。先天的か後天的にかにかかわらず障害も持ちながらも健康人と同じように社会生活をおくって、あるいはおくる努力をしている人を前にして、その人にはない、大事なものとして健康をあげたらどうなるのか。ろくに考えもせずに健康を上げる人たち、健康以前に人としてのありようの大事なものが欠けている。
一目で分かる障害ばかりではない。一見健康そのものに見えても、もしかしたらと思うと健康であってはじめて可能なことを大きな声で話すのをためらう。そこまで気にしなくてもと言われるかもしれない。しかし“差別の多くは差別される側でなければ気がつかない、差別する側は差別していることに気がつかない”ことを思うと気にしなければならないと思う。
健康は、それでもフツーの人たちの日常生活において差別用語になる可能性はさほど大きくないかもしれない。しかし美白は大方常に差別用語になる。日に焼けて褐色になったのでもない限り肌の色は遺伝でしかない。化粧品で白っぽく見せることは可能だろうが、遺伝で引き継いだ肌の色を変えるのは難しい。生まれながらにして肌の色が決まっていることころに白い肌と美しいを合わせると、あまり白くない肌の人たち、褐色の肌の人たちは白くないから美しくないと少なくとも言外に言っていることにならないか。
地球も小さくなって日本にいても様々な国からのいろいろな民俗の人たちに出会う。美白が漢字であることに助けられているが、もし、海外から来られた白くはない肌の人たちが雑誌や化粧品の広告にある美白の意味を知ったらどう思うだろう。どう思おうが、それはそっちの勝手で日本人は白い肌をきれいな肌だと思っているのだからしょうがないじゃないかという意見が聞こえてきそうな気がする。おっしゃる通り。何が好きか、何を綺麗だと思うかは個人の自由。誰もとやかく言えることではない。個人で思うのも仲間内で思うのも自由。ただ広告とはいえ公共の場で読みを反対にしたら、肌の黒い人はきれいでないと読める広告はいかがなものか。性差別で差別される側にいらっしゃるからだろうが差別に敏感な女性の方々、それとこれは別だというのも、それは一部の人たちというのも成り立たないくらいのことは分かるだろう。
もし、美白を宣伝文句に使った化粧品や雑誌がボイコットにでもなったら、ボイコットにした日本人の常識を誇りに思う。誇りに思うのは巷のやぶにらみのオヤジだけでないと思うのだが、これを差別的発言と言われるとちょっと困る。
さらに言わせて頂ければこのような基本的な人としてのありようが曖昧なところに真の“おもてなし”や“心遣い”があるとも思えないのだが。
2015/2/21