思考の訛り(改版1)

入社してすぐ一週間近く座学が続いた。座学と言われて何かと思ったら、部長や課長のダラ話に耐えることだった。傾聴に値する話は一つもなかった。ひどいのは『次郎長か紋次郎か』という演題で、数日後に寮の雑誌廃棄箱で見つけたサラリーマン向けの週刊誌の内容だった。社会の主要構成要素の一つであるはずの会社(民間企業)とはこの程度なのかとがっかりした。会社に対する期待が大きすぎた。

ただの高専出の新入社員、何もないが人並みの緊張感はあった。親心という訳でもないだろうが、ダラ話がその緊張感を解きほぐしてくれた。聞こえてはくるのだが聴ける内容がない。なかにはボソボソと口から音が出ているだけで、聞こうにも物理的に聞きようがないのまでいた。最低限の緊張を保つのが苦しい。姫路から来た同期は、机の上に涎の池を作るほどぐっすり寝込んで寝冷えした。

座学が終わって工場実習になったとき、みんなやっと解放されてホッとした。実習内容によって二人か四人のチームで現場のあっちこっちでお世話になる。引き受ける現場の班長にとっては毎年恒例の儀式。学卒が現場に配置されることもないし、もしあったとしても将来を見据えた経験のためでしかない。実習と言ってはいるが、おざなりの現場体験でしかない。あちこちの現場に一二週間いるだけ。何が学べる訳でもない。怪我をしたり機械や装置を壊さずに、時間になったら、お世話になりましたで、出て行ってもらいたいとしか思っちゃいない。

岡山出身の気のいいやつとペアになって、古いタレット旋盤の総分解と総組立ての実習に入った。二人とも機械工学科、旋盤の何たるかくらいは分かっている。ただ学校の実習工場にあった工作機械的玩具と呼んだ方がいい学校用旋盤しか知らない。たとえて言えば、町の自警団と職業軍人の装備の違いくらいに違う。目の前のタレット旋盤、玩具しか使ったことのない二人には重い。

見たところ五十過ぎの如何にも現場のオヤジの風体の班長から注意事項やら何やら聞かされて、組立図を見ながら分解の大筋の手順の話になった。一人で話を続けて、実習生二人の反応がおかしいのに気づいた。どういう言葉だったか忘れてしまったのかが、最初の「お前たち分かってんか」が出た。言っていること自体は大したことではない。物を目の前にして組立図を開いて指さして、聞き取れなかったとしても、話の流れから大まかな想像はつく。ただ想像までで、「分かってんのか」と言われても、ハイでもないしイイエでもない。分かったのか分かってないのかはっきりしない二人の態度に班長の声もきつくなる。

小言のような口調の一くさりを終えて班に戻る班長。班長の後ろ姿を見ながら岡山出身が言う。「分からねぇんじゃなくて、あんたの茨木弁が分かんないんだよ」、「お前、東京だろう。あれ分かんないんか?」、「分かりっこねーだろう」、「たまに聴き取れるのもあるけど、分かるわけねー」、「まったくトンデモねぇところにきちまった」、「東京に来たつもりだったのに、来てみりゃ茨城だ」、「岡山の方がまだ気が利いてる」、「いやー、オレもたまげた」、「上野まで高々三十分、大利根の前だらかまだ千葉県だ」、「まさかここまでとは、来てみなきゃ分からねぇ」、「そうだよな、ここら辺りの人はみんな東京に出ちゃう」、「ここで止まるってことは、東京には出れないもっと在の人たちってこったろう」、「そうでもなけりゃ、あの訛りはねぇーだろ」、「上野まで行かなくても、松戸あたりでもう話が通じないかもしれないぞ」二人きりになれば決まってこの類の話になる。そこにまた班長が来て話の種を蒔いてゆく。

組立図はその名の通り組立図であって分解図ではない。本来組立図を見れば分解もできるはずなのだが、それは分解しようとする機械に関する基礎知識があって、それを基に組立図を読み切る能力があってのことで、実習している者にはそれがない。二人で何度もとんでもない間違をしながら、班長に叱られ叱られ、なんとか分解して組み上げた。班長がチェックして、あとは潤滑油を入れて最終動作確認で終わりだ。班長が、「ヘッドストックにマシン油を入れろ。あっちに蛇口がある」と指さした。

分解したとき油受けに使ったバケツをもって、指差された方に行って蛇口をひねって、さらさらのマシン油を汲んで、油面を見ながらマシン油をヘッドストックに入れて、主軸をそうっと手で回した。きれいに回る。これでこの実習も終わって、班長とも……と思っていたところに班長が帰ってきた。ヘッドストックのギヤトレインを上から見て、「うん、なんか変だ」、「なんだこりゃ、水じゃねぇーか」、きょとんとする二人に怒鳴った。「なに、水じゃねーか」

班長が指さした方向には大きな手洗い場の蛇口とその影に隠れるようにマシン油の蛇口があった。水とマシン油の違いを一目で見分けられない二人。マシン油と思って水を汲んできた。班長、もうあきれて怒る気もしなくなったのだろう。もう一度ヘッドストックをばらして組み上げろといって自分の班に戻って行った。

学卒は北海道から鹿児島まで日本全国からみんながお国訛りを持ってきていた。日常会話のなかで少なからず訛りがでる。同期の間では訛りを隠そうともしなかったが、相手が話についてこれないような感じであれば、言葉としての訛りを調整するだけの知恵は持っていた。現場のちょっと強過ぎる茨城弁には往生したが、要はその強さを飲み込んでしまう能力がなかっただけのことに過ぎない。訛りもどきで意志の疎通に齟齬をきたしていては社会、部落のような閉鎖された社会ではなくある広さをもった社会ではフツーの生活すら難しい。

今や共通語となった感のある英語での意思疎通になると、国内における訛りを遥かに超えた状況に遭遇する。それぞれのお国訛りの英語で駆け引きになるビジネスの世界では、言葉の訛りの障害を超えたところでの能力が問われる。相手の立場やよって立つ社会や文化に歴史から価値観や常識、さらに個人のエゴや理解の能力の限界がからみ合って、言葉としての訛りがどうのいうのを超えたぬかるみのような世界になる。訛った英語(言葉)などより遥かに重くて扱い難い文化や思考の訛りが意思疎通や相互理解を難しいものにする。それがしばし乗り越えようのない障害として居座る。

言葉の訛りまでならフツー知識や広い意味での知恵でなんとでも調整できる。問題はその知識や知恵のありようを支配している文化と思考の訛りにある。文化は社会だが、訛りは言ってみれば、その人のありようそのものに他ならないから。
2016/10/30