アマゾンで氷を説明する(改版1)

ドイツ二社とオランダ一社、いずれも製造業向け装置メーカ、業種は異なるが業界では名の知れた三社。その三社の日本支社で市場開拓を職務としていたことがある。三社とも歴史も違えば置かれた状況も違う。にもかかわらず三社で全く同じと言っていい問題に遭遇した。けっして机上の理想論ではない、こうしてゆかなければ将来の事業展開のしようがないと似たような説明をして、全く同じ反応に遭遇したときは軽いカルチャーショックを受けた。興味深いことにお世話になった日本企業の状況もその三社とよく似ていた。米国の企業にも、外れ値の一社を除いて、似たような問題はあったが軽症だったし問題の質も違っていた。限られた直接体験に基づく一般化でしかないが、とんでもない間違いを犯しているとも思えない。知合いに話を聞いてみたが驚くほど同じ結論を出していた。
ヨーロッパ大陸の企業も日本企業も海外に進出する準備ができていないことになかなか気づかない。気がつく能力ということでは米国の企業も似たり寄ったりなのだが準備はできていることが多い。何を準備しなければならないかを考えることもないのに何らかの準備ができている。おかしな話なのだがこれは米国の歴史と社会の特殊性に由来している。多民族、多言語、異文化を一つの組織にまとめなければならない米国の日常が米国企業に海外に持ち出し易い業務体系を構築させた。そこでは多様性に対応するためできる限りの暗黙知を形式知にし、形式知を体系化し標準化する作業が進められ、さらに形式知を多民族、多言語、異文化に敷衍する教育体系も作り上げた。
米国社会が国の成り立ちから抱え込んできた多様性の問題に比べれば、ヨーロッパ大陸や日本が対応しなければならない多様性は限られている。そこでは徒弟制のもと暗黙知に価値を置き、形式知化することに社会的必然がなかった。
海外展開を始めた途端に多様性への対応−自国においてはそれまで求められたことのなかったことを求められる。状況が違いすぎて求められたことのないことを求められていることにすら気がつかない。今までとは違った何かを求められていることまでは想像がついても、求められていることが違い過ぎて具体的に何を提供すればいいのかを想像できない。
知識を形式知とすることなく、昔ながらの徒弟制のように一緒に仕事をしてゆくなかで経験者から未経験者に自然と知識が受け渡されてゆく社会しか知らない人たちは、米国社会のように体系化し標準化された形式知を体系化した教育体系で次世代を教育してゆく社会や文化があることを理解できない。多少分かったとしても異文化として違和感の方が強ければ自分たちの歴史で培われてきた自分たちのやり方に固執する。最終的に似たような体系を作らなければならないと思ってもどのようして作るのか試行錯誤が続く。自分たちの歴史や文化に異文化を融合するこの類の試行錯誤は往々にして新しい体系が機能する前に昔ながらの慣れた体系に逆戻りして終わる。
この自分たちのやり方は自分たちの文化のもと−ヨーロッパ大陸や日本という土壌においてしか活かし得ない。一方米国という特殊な社会が作り上げた体系だった形式知と教育体系は、本質的に多様性に対応することを前提としたが故に海外に持ち出しても運用できる。ヨーロッパ大陸の教育体系では限られた数の人たち(例えば日本の従業員)を母国に派遣しての教育は可能だが、米国の教育体系は進出先の国での教育、それも均一な能力の人材の大量生産を可能にした。
ヨーロッパ大陸の企業の日本支社がいつまで経っても立ち上がらない。それは1)ヨーロッパ大陸の企業が日本人従業員に体系だった形式知に基づく教育を提供し得ないこと、2)さらに文化も環境も違う国でも使える業務体系を構築してこなかったこと最大の原因がある。全く同じことが日系企業の海外進出でも起きている。
教育もなければ業務インフラもなしで野良犬のように自分たちのできることをし続けるというあってはならないことが必然としておきる。それを現地の特殊事情と考え、本社の問題ではないとする当事者としての認識と意識の欠如−夜郎自大が問題を解決し得ないものとしてきた。
米国的な体系だったトレーニングに海外でも機能する業務体系のような要求が海外支社から提案されたとして、それを受け入れ、開発しえるヨーロッパ大陸の、日本の企業がどれほどあるか。言ってみれば自分たちが大事にしてきた社会や文化、価値観、特にヨーロッパではそれらの多くが反アメリカの様相のもと奇形化した感情にまで昇華したものを一度解きほぐしてグローバルに使えるものに再構築しなければという考えに至る優秀な(?)人材がどれほどいるか。またその人材を支持する開明的な組織や成熟した社会があるのか。考えれば考えるほどヨーロッパ大陸の企業も日本企業も海外展開に耐える組織体になるにはまだまだ時間がかかるとしか思えない。
自分たちの社会での常識しか常識はあり得ないとしか考えられない人たち、状況がその常識から乖離しすぎて理解しようとする意志もなければ能力もない人たちに(その人たちにしてみればあり得ない)状況や戦略を説明せざるを得ないとき、はたして説明し得るものなのか、説明などできっこないものを説明しようとしているのではないかいう思いに駆られる。
言ってみればこう言うことが起きているのだなと自分に言い聞かせることがある。熱帯のジャングル−アマゾンでもボルネオでもティモールどこでもいいが、そこで外界との接触が極端に限れた人たち、氷など見たこともない、冷たい水までは知っているが水が凍って個体になるなど想像だにしたことのない人たちに氷を見せずに言葉で氷をどう説明するか。 氷は物理的な実体のあるものだが、社会や文化、思考や指向などは多少なりとも観念の世界の話。相手はアマゾンで氷を言葉でどう説明したものかというようなことを考えたこともない人たち。説明するにはまだまだ修行が足りないということなのだろが、はたして説明できるときはくるのかと思いながら。。。
2014/11/16