スイスチーズモード(改版1)

完璧を期すあまり結論を出すのを躊躇していては何も始まらない。ましてや失敗を恐れて今まで通りでいいじゃないかと思ったら、改善しようと考えることすらなくなる。
決められたことを決められたようにすることが求められるお役所(失礼?)のようなところで、何か新しいこと始めようとすれば、今まで通りの定型業務でしか存在し得ない人たちが揚げ足を取りに出てくる。そこに“もし”で始まる堅実さの装いまとい、新たな負荷を背負わないようにすることを人生訓としているのが輪をかける。笛吹けど踊らずの見本のような組織。世界市場では名の知れた米国系企業の日本支社を軌道に乗せるために、まるで文化革命のようなことをせざるを得ない立場に陥ったことがある。
二十人ほどの小さな組織で、二つの派閥に分かれて陰湿な足の引っ張り合いを繰り返していた。そのようなところでは、何をするかではなく、何をマイナスとして指摘されないかに気を配ることになる。傍からみれば、出来の悪い茶番ででしかないのだが、そこには茶番でしか存在を示し得ない人たちがいた。
退官した通産官僚が、よくて学園祭のお遊び程度のソフトウェアの知識しかない者をかき集めて、ソフトウェア開発部をつくった。形だけの組織、頭数としての人はいるが人材がいない。できることは、会社の金と時間を浪費して集団で格好をつけることと、ライバル−とお互い思っている人たちの揚げ足取りだった。
ソフトウェア開発部内でのいがみ合いや揚げ足取りであるうちは身内のいざこざで済むが、業務で関係する部署に影響しないわけがない。組織上近隣にいる人たち、業務上は距離があるにもかかわらず、物理的に近隣にいる人たちの間で揚げ足を取られないように−マイナス評価をされないことを優先する内向きの姿勢が蔓延していった。分掌をできるだけ狭く限定し、その中で抜けや見落としがないように注意を払うのが仕事としてのあるべき姿と考える人たちのみが平静として過ごせる環境になっていた。
新規市場開拓や新しい技術の開発、新しいビジネスモデルの構築は、本質的に今までやったことのないことへのチャレンジの連続になる。しばし限られた知識で手探り状態から始まるから、揚げ足取り連中にとっては格好の漁場になる。ソフトウェア開発部として何年かけても市場に投入できるものを開発できないでいた。そんななか自分たちより実績のない新しい部署を叩くことが、社内における彼らの地位を安泰にしないまでも保身の一助になると官僚崩れのトップまでが考えていた。
何をしても必ず周囲からしばし聞くに耐えない雑音が入ってきた。無視しようとしても、いつもチームの誰かが引きずられた。新規市場を開拓しなければないないにもかかわらず、勝手知ったる業界やその派生の範疇に留まろうとする。限定された領域で抜けや見落としで突っ込まれないように完璧を期そうとする。そんなところに社としての将来がかかっている新規市場開拓などあり得ようがない。
雑音に振り回されながらも、担当者と一緒になって新しい市場の可能性−仮説を立ててはその検証に動きまわった。仮説は多ければ多いほど良いわけではない。自分たちで検証に走りうる仮説の質と量が求められる。動き回れば、それなりにその市場(一領域)から競合関係まで見えてくる。ただ、いくら時間と労力をかけても個々の領域の全てを知り得る訳ではない。必ず分からない空白をあちらこちらに残したまま可能性のある複数の市場を追いかける作業を継続していった。
開拓しようとしている市場を図で表せば、穴だらけのスイスチーズをスライスしたもののようなものになる。スライスしたスイスチーズを何枚も机の上にならべて、どのスライスの何を優先するか、それぞれのスライスの上で何をどうしてゆくかを考える。周囲の揚げ足取りの批判は気になるが、空いている穴(分からない領域)を埋めることは優先しない。穴だらけで大きな穴がいくつあっても市場開拓を進められれば、穴などいくらあってもかまわない。一枚のスライスに固執して空いている穴を全て埋めようとすれば、他のスライスに手が回らない。一つの市場は百パーセント分かったが、他の市場にはろくに手も付けずに残すなど選択肢としてあり得ない。
スイスチーズモード、ある意味、試験勉強と似たところがある。今、仮に英国数の三教科で英語が八十点、数学が六十点、国語が五十点、三教科合計で百九十点だったとしよう。英語は得意科目。得意科目だから勉強もあまり苦にならないが、国語は苦手意識が強く、勉強に手がつかない。ここで好きだからと今まで通り英語に多くの時間をかけて、数学と国語避けていたらどうなるか。たとえ英語を完璧に仕上げたとしても百点を超える点数は得られない。追加に得られる点数は二十点しかない。一方数学には四十点、国語には五十点、点数を増やせる余地がある。余地が大きいということはフツー埋めやすいということを意味している。余地が小さければ小さいほど埋め難い。極端な例をあげれば、九十九点から余地の一点を埋めて百点にするのは非常に難しい。一方、五十点から十点、二十点増やすのは最後の一点を確実なものにするよりはるかにやさしい。
フツーの話だと思うのだが、仕事になるとこのあたり前のことが雲散霧消してしまう。完璧を期さなければならないことも多いが、全てのことで完璧はあり得ないし、求めるべきでもない。こっちでもあっちでも抜けだらけ、それでも全体でみれば限定領域の完璧よりはるかに価値がある。スイスチーズモード、いつでもどこでも使える考え方ではないが、完璧のプレッシャーや失敗を恐れる気持ちを整理して前進するツールとしては使える。
2015/4/10