書くだけでなく描く

米国の産業用制御機器メーカの日本支社で日本語ユーザーズマニュアルを作っていたことがある。作ってと言っても英語のマニュアルを正本として日本語に翻訳して体裁をつけるだけなのだが、これが意外としぶとい。英語だからというだけでなく、探しいる情報がどこに記載されているのか見つけるに一苦労する、読む気がしない代物だった。当然のこととして客は読まない。分からないことがあれば読まずに電話してくる。電話を受けて、マニュアルのxxページを見てくれといいながら、説明することになる。マニュアルとはそのように使うもので、自分から読むものではないと思われていた。欲しい情報をマニュアル中で見つけるのが一つの技能のようになっていた。ただの慣れでしかないのだが、慣れるまでの時間をかけている余裕などある人などいない。
タイプライターの登場が文字だけの書類を生み出した。タイプライターなどない時代には道具は様々にしても手書きだった。手書きであれば、文字だけでなく好きなように作った記号や図、表でもグラフでも書き放題だった。文字の歴史は遡っても唯だか五千年。絵や図は相手に伝えたいことを伝えるために文字以上に活用されてきた。それがタイプライターという文明の小道具が登場したとたんに、文字だけのきれいで均一ないかにも正式書類という体裁の書類が作り出された。
コンピュータが進化して書類の作成にワードプロセッサなるものが重宝に使われてきた。書類作成の生産性は上がったが、ワードプロセッサが扱えるのは文字と限られた定形の記号に限られている。そのため、読みやすい、使いやすいという視点から見ればタイプライターで書かれたものとなんの違いもない。
日本語の文字数が日本語タイプライターを特殊な世界のものにした。フツーの人たちの日常業務は手書きのまま残された。手書きであるがゆえに文字だけでなく何でも自由に描ける。図でも表でもグラフでも素案さえ描けばあとはそれを正式書類としてかきあげてくれる業者が控えている。
顧客が鉛筆を使ってフリーハンドで書いたマニュアルを手にして驚いた。一目瞭然の図や表が拙い(失礼)日本語の説明を補って余りある。文章は図や表が表わしていることの理解を促す補助的な役割を担っていた。図や表が説明しているので文章が少なくなる。文章が少なくなれば多国語への翻訳作業を軽減できる。まだグローバリゼーションなどという言葉を聞くことのない時代だったがユーザーズマニュアルもカタログも文字を減らさなければ翻訳作業が海外市場展開へのボトルネックになっていた。
米国本社のTechnical writing部隊のマネージャとの言い合いをしていた。日本のマーケティングの陣容では増え続ける日本語マニュアル作成が追いつかない。外注で翻訳させても社内でチェックする工数が足りない。チェック待ちしているうちに製品がバージョンアップしてしまう。横のものを縦に書き直して一文字いくらという“量”でメシを食っている翻訳会社に技術資料を提供したり製品説明を繰り返したが質に関して多くは望めない。最終責任はメーカにある。マニュアルがだらしなければ、客が困る以上に社内の技術部隊が要らぬ時間を浪費することになる。
日本の機械メーカの現場の人が自分たちのために描き上げた操作手順書がいい参考になった。現場で作業をしながらそれこそ鉛筆舐め舐め書いたものでほとんどのページがスイッチやキーの図で占められていた。操作手順の順番に記号と矢印で書かれた操作手順書をTechnical writingのマネージャに参考資料として送った。このようなマニュアルにしなければ加速していた海外市場展開について行けないことを繰り返し主張した。
具体的な例まで提示され追い込まれた感のあったTechnical writing部隊が、あるとき突然動いた。三年近くもこうしろと主張してきたのをシステムとして組織として作り上げてきた。それまで何度言っても聞く耳を持たなかった連中が手のひら返したようにこれがドキュメントのあるべき姿だと主張しだした。昔ながらの文字だけのドキュメントしか作れない人たちをレイオフして、図や表を描くシステムにそのシステムを使いこなす人材を買ってきた。ユーザーズマニュアルがある日突然図や表にグラフだらけのものになった。
書類の類は自分の整理のために書いておく、まとめておくこともあるが、多くは誰かに理解してもらうために書いている。文字だけで理解しづらいと思えば、昔のマニュアルがフリーハンドで書かれたようにPowerPointでスケッチを描いて、Excelで表にする。鳥瞰できる資料としてまとめて、まとめたものの理解を促すコメントのような文章を付け加える。もう、習慣になってしまった。ちょっと手間はかかるが、文章だけで主旨が判然としない資料を作るよりはと思う。書いたときは分かっていても時間の経過とともに書いた時のことを思い出さなければ何が書かれているのか分からないような資料は書いた人の能力をそのまま映し出している。そんな資料、口頭での説明でもなければ受け取った方は分からない。誤解されたとして、その責任は資料を作った側にある。
タイプライターが手書きを葬り去ったようにe-mailが手書きの活用を忘れさせた。さっさと文字だけでメールを書いて送信すれば自分の仕事が終わったと勘違いしている人が多すぎる。伝えなければならない内容が伝わらないことを相手の理解能力のせいにする。伝えなければならないこと全てを文章で説明するほどの文才があるとでも思っているのか。
人類が文字を発明して五千年。識字率が上がって多くの人が文字を使い始めて数百年。絵や図は人類発祥の頃からの便利な道具。それも言語の壁などはなからない万能ツール。便利さにかまけてちょっとした手間を惜しんでいるようでは人類発祥の頃にすら至らない。
2014/6/22
p.s.
文才があるわけでもなし、My commonsenseも文字だけで分かり難いところ多々あるはず。図や表も併用しなければと思いつつ。ご容赦を。