何のために

随分前になるが一世代以上前の男子体操選手の話をテレビで聞いたことがある。オリンピックで金メダルを当然のようにとった選手だからだろう名前と顔を覚えていた。チャンネルを回していたら偶然映っただけで、どのような番組なのか覚えていないというより知らない。トークショーのような感じで彼が現役だったころのトレーニングについての話になった。体操のとんでもない演技を見る度にたまげて、この人たち、いったいどういう人たちなのか、どういうトレーニングをしているのかと気になっていた。チャンネルを回すのを止めて話を聞いた。聞いて演技を見た時と同じようにたまげた。そこまで生理学的というのか科学的な知見に基づいたトレーニングだったのか。そうでもなければ、あのとんでもない演技を大舞台でできてあたり前のようにできっこないと驚きを通りすぎて納得してしまった。
細かな具体的なことを話し出したら切りがないという素振りを見せながらも話す機会を貰った嬉しさを隠し切れない。手品で言えば種明かしなのだろう。手品なら種は分かってしまえば、なんだそんなもんだったのかと拍子抜けとでもいうのかがっかりさせられる。彼のトレーニングは聞いて、手品の種明かしとは違って演技を見せられた時と似たような驚きがあった。
XXX(難度の高い演技、技と呼ぶのか?)には上腕のAAA筋とBBB筋の筋力が必要なので、aaaやbbbを繰り返して。。。、YYYには、。。。当然体操選手として基本となるトレーニングもあるだろうし、全種目に渡った必要な基礎能力を高めるトレーニングもあるだろうが、その延長線で鍛えあげていったとしても難度の高い演技には十分ではない。さらに大舞台での失敗を最小限に抑えようとすれば、できてあたり前のレベル以上にまで使う個々の筋肉とトータルな筋力を鍛えあげる必要がある。
どの選手もできるだけ難度の高い演技をやり遂げるためにギリギリのトレーニングを繰り返しているのだろう。そのなかで一歩前に出ようとすれば、当然しなくていいトレーニングをしているような暇はないはずで、目標とする演技に特化したトレーニングに集中することになる。世界の体操選手としての基礎能力とその延長線ではなく、演技に特化せざるをえない。そこは頑張るという精神論では通用しない世界で、科学的知見に基づいたトレーニングがある。これなくして世界のトップ選手のレベルに達することは不可能だろう。 彼の話を聞いていて、高校野球の継中で解説者が感慨深く話したのを思い出した。昔、私たちの頃には練習、練習と言って何でもしてましたが、最近の子はその練習が具体的にどのような効果があるのかはっきりしないとやらないというのか手を抜くというのか、監督も大変ですよ。合理的な説明で納得しないとやらないですから。科学的な裏付けのない精神論に頼った、それもしばしば懲罰的な練習では高校野球の世界でも成り立たなくなってきたということだろう。高校野球でも(失礼)そうなのなら大学や社会人野球、野球以外のスポーツでも昔ながらの根性物語から科学的思考に基づいたトレーニングや試合になってきているのだろう。あたり前に話だが、目的を効率よく達成するために効果的なトレーニングが必要なのであって、目的ではないものに時間や労力を割いていれば目的達成が危うくなる。
高校野球ですら(失礼)目的を明確して、効率よく効果的なトレーニングがフツーになってきたにもかかわらず、仕事の世界では開明的な高校野球にもおよばない旧態依然とした業務体系と環境がそのまま残っている。煩雑で間違いが起きてあたり前の業務システムにもかかわらず改善し整備するという視点も考えもない。「がんばろう」や「注意しましょう」で目的が達成できるとでも思っているのか。効率のよい業務遂行という目的達成の多くが個々の担当者の頑張りに依存した状態が続いている。高校球児ですら納得しない状態をあたり前と思っているベテラン社員と経営陣。
もう、いい加減にどこかの体育会系の乗りか根性物語で成り立っている社会から脱するときだろう。古き良き時代の惰性でしなくてもいいこと、しちゃいけないことに時間や労力をかけていれば、目的達成に焦点を合わせてしなければならいことをして、しなくてもいいことをしない−合理的な人たち(企業や国。。。)に置いてゆかれる。
どうでもいいことに手間暇かけててもよかった時代でもなし、惰性を断ち切って今までしてきたこと、今していることがいったい何のためのか、目的を達成するためには何をしなければならないのか、何をしなくてもいいのか考えるときだろう。あたり前のことでしかないと思うのだが、もし、社会として組織として個人としてこのあたり前のことを考える能力や習慣がなかったらどうなるのか。日常のささやかな遭遇のなかで、まさかそうじゃないよなと思いつつ、たとえそうだったとしても考えようと。。。
2014/7/20