努力は裏切らない

問題があれば解決しないまでも改善しなきゃと思う。それ以上に改善しようとしないことには罪悪感に近いものを感じる。しゃっちょこばった生き方しかできない不器用な性格。そのせいで若いころから何をやっても問題の深みにはまってゆくだけでろくな事にはならないと思ってきた。
組織として抱えている問題に遭遇して、問題を解決しなければ進展を望めないことがおぼろげにでもみえてきたとき、とり得る選択肢は大きくわけて三つしかないと思う。
一つは問題を抱えた組織のなかで問題を問題としない立場、できれば問題のおかげでいい目をみれる立場に身を置く、あるいは置きたいと努力すること。高級官僚とその取り巻きの利益が国家としてのありようとなっている国−ロシアや多くの発展途上国の状況を想像すれば分かりやすいだろう。その社会に生きるということはその社会のありようをありのままに是認してそのなかでいかにしていい場所に身をおくか、置こうとするかが賢明な生き方になる。国家レベルでの公然とした汚職で組織が成り立っているなかで、汚職に積極的に関与すれば、国家レベルで見て国に貢献していることになる。多くの人たちはそこまで明確に意識していないだろう。意識することもなく迎合した生活が社会そのものというぼんやりとした社会認識のままで時が過ぎてゆく。社会のありようがそれをフツーとしている。
二番目は社会問題を社会問題として明確に認識する能力はあるが問題を解決しようとはせず、問題を迂回しようとする人たち。プラクティカルに考えて、自分(たち)の能力と立場、与えられた時間から、問題を避けることを選択する。移民はこのような人たちにとって典型的な解決案かもしれない。
三番目の人たちが一番危ない。今のロシアや多くの発展途上国で権力層や利権層の不正を問題として発言すれば社会的以上に生物学的に抹殺されかねない。問題を真正面から捉えて、個人の問題としてではなく社会の問題として社会のありようから、その成り立ちと歴史的背景、さまざまな視点での理解を深める努力をすることになるが、いくら努力しても、その努力が現在の体制や社会では報われることはまずない。
仕事を始めて会社でも社会においても当然のこととして自分の力ではどうにもならないことに遭遇してきた。遭遇するたびに何故そのようなことになるのか、経緯や背景を考え調べて、問題を解決できないまでも、受けたくない影響を最低限にできないかと思案してきた。いくら努力しても、その努力の過程で周囲の人たちの視点でみれば余計なことにしか見えないことの影響を受ける一番目の人たちからも二番目の人たちからも疎まれる。その上いくら何をしようが結果として得られる成果はしれている。誰も手をつけなかった、放っておけば問題は問題としてあるが、あることが日常になっているので、問題を問題と感じない生活送ってきた人たちにしてみれば、あえて問題を問題として解決しようなどということの方が傍迷惑なことの方が多い。
言ってみれば流れの殆ど無い河口のヘドロの処理に似ている。長年に渡ってヘドロとその臭いがフツーの日常生活になってしまった人たちにしてみれば、その川にちょっとゴミや吸い殻を捨てるのに躊躇などしないだろう。もともとドブ川になっていてゴミだらけのことろにもうちょっとゴミが増えたところでたいした問題じゃないと思う。与えられた環境をどうこうしようというのではなく、ただ上手く順応した日常生活がある。
その環境では生活したくないと思う人、また社会的、経済的に可能な人たちはドブ川のないところに引っ越す。二番目の人たちがこれに相当する。第三番めの人たちはドブさらいを試みる。完璧なドブさらいをする能力があったとしても、ドブになってしまった根本原因−上流も含めた環境整備をし得なければ、さらったところで何年もしないうちに前と似たようなヘドロの川になる。作業中は周囲の人たちはかなりの悪臭や騒音を我慢しなければならない。下手にヘドロをかき混ぜるようなことをしないでくれという人たち−ヘドロがあたり前になっている、ヘドロが平気な人たち−一番目の人たちからすれば余計なことをする厄介者としか映らない。
問題や課題に遭遇する度になんとかしようと根源的なところまで踏み込んで、また関係する周囲の事柄についても調査と勉強を繰り返してきた。成果という成果が見難いなかで、十の努力をしたところで一どころかほとんど報われることはないだろうという、リターンを求めないサバサバした気持ちでできる限りのことをしようと心がけてきた。若い時に多分雑誌『世界』だとおうもが、誰かの寄稿記事のなかにあった「報われない努力ほど美しいものはない。」という詩的な世界の話を自分の日常においていた。
三十過ぎて、知り合いから「いろいろな事や人は裏切ることがあるけど、努力は裏切らない」という言い草を聞いた。報われるか報われないかなどどうでもいいことで、自分の生き様のところで安易な妥協というのか自分を捨てた生き方ができない者にとって、努力は裏切ることがないという言い草、大げさに言えば天の声に近いものがあった。
いい歳になっても裏切ることのない努力を続けている。そのなかでぽっと昔やったこと、勉強したこと、当時は何の役にも立たなかったことが今頃になって役に立つのに驚くことがある。あまりに昔のことで疎覚えになってしまっておさらいするのだが、自転車のようなもので一度乗るコツを覚えてしまえば、多少危なっかしくてもいつでも乗れる。
全てが報われるわけじゃないし、報われることなど期待しては努力などしてられない。報われないからってどうしたってくらいの気持ちで、できることならしておこうというくらいの気持ちだったとしても、できるのなら努力はしなきゃならない。分かってて気がついていてしないでいれば、自分で自分を腐らせる。いつかどこかで。。。努力は裏切らない。
2014/07/27