「君子革面、小人豹変」(改版1)

前半分「君子豹変」は耳にするが、後ろ半分「小人革面」はちょっとという方もいらっしゃるだろう。読みは、「くんしはひょうへんし、しょうじんはおもてをあらたむ」。表題はちょっと違っているのでご注意を。
『大いなる探求− 経済学を創造した天才たち』シルビア・ナサー/徳川家広訳を読んでまた不勉強を痛感させられた。経済学を専門としているわけでもなし、しょうがないじゃないかと自分に言い訳がましいことを思いながらも、そんなことも知らなかったのかと思うと恥ずかしい。ミルトン・フリードマンと聞けばシカゴのマネタリスト、新自由主義の教祖的存在としか思い浮かばないが、本によれば若い時はバリバリのケインジアンであったと。改めてウィキペディアを見たらちゃんと書いてある。
本によれば連邦政府の若き経済官僚の一員としてインフレを抑えこむために必要な増税額の推計が大きな初仕事だった。取るに足らない所得税から源泉徴収という徴税方法、さらに累進課税まで連邦政府の税体系の中核をなす所得税体系を作り上げたのがフリードマンだった。第二次大戦が終わり連邦政府の職を離れるまではがちがちのケインジアンだった。そのフリードマンが八十年代のレーガン政権のもとでマネタリストとして新自由主義を掲げ低い税率と小さな政府を主張して第二次大戦中にしたことを瓦解させる旗手として活躍してきた。
方や国民の厚生に主眼を置いたケインジアンとして、方や資本の剥き出しの利益追求の学術的基盤を提供してきたマネタリストとして素人目にはどうみても相反する二つの立場を、あっちからこっちに転身したようにしか見えない。もっとも本人に言わせれば経済学はそのときどきの社会問題を経済学の立場でみて解決案を提示するのが責務であって状況が違えばその状況に応じた処方箋も違ってあたり前、違わないほうがおかしいと言うかもしれない。第二次大戦中にはインフレが主問題で、八十年代はインフレと景気後退のスタグフレーションが問題だった。そのスタグフレーションがケインズ理論に基づいた政策から必然的に生まれてきたと考えられるのであれば、否が応でも反ケインズ政策を模索しなければならない。
では、マネタリストの視点から生まれた新自由主義の申し子である金融自由化−金融機関による不定見な信用の拡大が引き起こした経済危機−新自由主義の崩壊とまでいわれる今、フリードマンが今の状況に最も適切に対応しなければならないと言ってマネタリストの看板を下ろして現代のケインジアンに鞍替えするのか、できるのか、あるいは新自由主義では今起きている問題を解決できないと反新自由主義を、ケインズ経済学に対するマネタリストに相当する新しい経済学体系を打ちたて得るのか。時間が証明するのを待つしかないが可能性は限りなくゼロに近いだろう。
フリードマンがいかに優秀で柔軟でも難しい。彼がケインジアンであった頃、いくら優秀だったとしても若手の気鋭の一ケインジアンでしかない、一従者でしかなかった。彼はケインズではなかった。だが、今の彼はマネタリストの旗手として学派の首領としてのフリードマンで、数いるマネタリストあるいは新自由主義信奉者の一人ではない。もし、ケインズが歴史上のケインズではなく、フリードマンと同じような立場にいた一ケインジアンだったら、七十年代から八十年代にかけてスタグフレーションと取り組まなければならない一ケインジアンだったら、巷の現実に起きている課題に真正面から対峙しようとする性格からフリードマンと似た立場、学説を説いた可能性すらある。ただ、ケインズ経済学を打ち立てたケインズにはスタグフレーションに悩むアメリカにマネタリスト的解決案を持ち出す自由はなかった。
エンジニアリング(工学)の世界は即物的で目的達成に主眼が置かれ達成するための手段は問わない。先人の足跡の延長線で手っ取り早く−良く言えば改善、しばし模倣もどきでも−求める結果が得られればそれでいい。ところが理念が重要な地位を占める人文科学の世界では従来の理念から一線を画して違う理念を打ち立てることが目的とされる。そこでは理念を打ち立てた中心人物はその理念に束縛される。瑣末な解釈論まではいいが理念の根幹を放棄することは許されない。開祖が別の宗教に走るわけにはゆかないのと似ている。
昨日までの独裁者が突然民主主義者に豹変して、バリバリの民主主義者の発言をしだしたとしても誰も信用しないだろう。しかし、本来の人間の能力の極みは、たとえ自分で打ち立てた理念であっても時の状況がそれを否定したら、打ち立てたものを廃棄して新しい理念の構築に邁進し得るかにあるのだが、極みは極み、理想ということなのだろう。
こうして考えてくると、「君子豹変、小人革面」は立場のある人たちのあるべき姿に対する願望か諂(へつら)いの言辞過ぎず、「君子革面、小人豹変」の方が現実を言い当てているような気がする。
時代を規定する理念、時代をかたちづくる技術、。。。を苦労の末に創造してきた人たちは創造したものに対する責任もあれば思い入れもある。それを学習し習得してきた人たち−従者にもそれなりの思いれがある。どちらも思い入れから自由ではあり得ないが学習してきたに過ぎない従者の思い入れは創造してきた人たちのものとは強さが違う以上に種類が違う。学習してきたものまでなら、状況が変われば、そして状況に対応しようとするのであれば比較的容易に捨てられる。
ケインズに対するフリードマンには従者(小人)の強みがあった。そろそろフリードマン対する従者の強みを体現する人たちが出てくるのか、既にいるのに気がつかないだけなのか。
それにしても人間出来上がってしまうと出来上がったところで終わりということなのかと思うと、いつまでも出来上がりようのない人生もまんざらでもないと思えてくる。小人思案。
2014/10/12