何になるかから何をするかに

覇気のある感じ?の若い人たちから将来の抱負の類のことを聞いてしまうことがある。今まで聞いて“はっと”させられたこともないし、“うん”と思ったこともない。できればその類の話は聞かないように、聞いても深入りしないようにしている。聞いたところで何ができるわけでもない。能力の限界に近いことをしてきているのでこれ以上できない。あらためて何かしようとすれば今までやってきたことの何かを止めなければならない。やってきたことを止めるのは、何か新しいことを始めるより手がかかる。
話を聞くのはいいとしても、いくら聞いても何をしたいのかはっきりしない。将来の話なのでぼんやりしているのはやむを得ない。状況しだいで思いも変わるだろうし、ピンポイントでこれをこうしたいという具体的にしえないのも分かる。ただ、それにしても話の中核にあるはずの何をしたいがなさすぎる。
幼稚園児や小学生に大きくなったら何になりたいかという定型化した問いがある。問いに対して“xxx”になりたいという答えが返って来る。xxxが学校の先生だったり、花屋さんだったり、サッカー選手だったりする。「何になりたい?」という問いに対して、「xxxになりたい。」という回答。回答としてはあっている。初等教育の段階にある子供に対する問いとしては、「何になりたい?」というところまでなのかと思う一方で、ではいくつになったら「何をしたい?」という問いと「xxxをしたい」とう回答になるのか。
なかには何になりたいが即何をしたいかになる職業もあるだろうから、一概に何をしたいのかに固執する必要はないと思いながらも、いい歳した社会人から字面からは幼稚園児や小学生が言うのとなんにも変わらない「xxxになりたい」がでてくると、失礼になりかねないがそこまでの人材かと思ってしまう。
さすがに社会人の発言なので、使う言葉も言い回しも子供とは違う。それでも言っている内容は、「偉くなりたい」、「お金持ちになりたい」と何も変わらない話に遭遇する。そこにはなったとして何をしたいのか、何をするためにそうなりたいのかがない。ましてや一社会人として社会に対してどうあらざるを得ないかなどという視点は微塵もない。何もないあげくが、そうありたいというところに近づくために今まで何をどう考えて何をしてきたのか、これから何をどうしてその立場や状態になりえると考えているのか。話を聞く限りでは、特段何の努力もせずに今までと同じように過ごして同じように夢を描いて。。。子供の単純な夢と五十歩百歩にしか見えない。
曲りなりにも高等教育を受け、一職業人として禄を食み、社会を背負って立っているはずの人たち、そのなかでも現状に満足することなく将来を思い描く、覇気のある人たちから出てくる言葉に、「xxxになりたい」はあっても「yyyをしたい」がないというのはいったいどういうことなのか。この類の話が多すぎて、聞いても違和感がなくなってしまいそうで怖い。
ほとんどの人たちが目の前に実体としてのモノ、それがたとえ抽象的なシステムであったとしても実体として提供されなければそのような実体がありうることすら思い浮かべられない。何時の頃からか思い浮かべられる人を“ビジョナリー”と呼んで、畏敬の念をもって見てきた。そこまではいいのだが、「xxxになりたい」と言うのにかぎって、巷で 喧伝された“成功者”を“ビジョナリー“と思い込んで、まねごとに精を出す。まあ、何もしないよりいいかもしれないが、それで何をどうできるのか考えることはないのだろうか。
社会が発達し複雑になればなるほど日常生活に根ざした経験から得られる知識からでは現状の社会のなかで部外者でも知りえることまでしかイメージし得なくなる。部外者でも知りえることの典型が組織上の立場であり、それに付随する権力(責任は外からは見えない)や経済的な豊かさだろう。そこまでの要素しか知り得ないが故に、社会はそこまでの要素で組み上げられているとしか考えられないのだろう。そこまでしか考えれない人たちの社会認識からは「xxxになりたい。」という抱負しか出てこない。
社会はいくら一枚岩に見せかけようとしてか見せられかねないとしても、ちょっと気をつけてみれば程度の差はあれいくつかの社会層に分かれている。今の社会体制で恵まれた立場にいる人たちは必ず今の社会体制を保とうとする。個人としては社会体制を変えようとする人がいたとしても、社会層としては必ず現状維持−保守になる。この社会層とその社会層が築き上げてきた社会でフツーに生まれ育ち、教育されたフツー人たちからすれば、今の社会体制のなかで、今の規則や文化のなかで、どうありたい−何になりたいかというまでの夢は想像できるし受け入れられるだろう。
何をしたいとい発想からは、今までの社会のありようから、ものやことの仕方まで−社会のありようまでを変えようとする考えが生まれてくる。この可能性、もし生れで出ようとしても今の社会のありようを変えることなく−恵まれた立場にいる社会層の利益を増やしても危険にさらすことのない範疇に抑制される。社会や産業の活性化、教育体系のありかたまで将来の社会を、誰に取ってのかはさておき、今までよりよいものしてゆうこうと思い描いてきたのがビジョナリーと呼ばれる人たちだろう。
恵まれた人たちにとっていい現状を危険にさらすことのないよう範疇に鋳込まれてしまった人たちの社会認識や常識。その常識を体現化した、一端の社会人であるはずの人たちから出てくるのが「偉くなりたい」や「金が欲しい」程度。その程度からひょいと首を出せば見えるかもしれない違う環境の可能性すら考える能力や気力まで失ってしまった人たち。社会変革などという気はないが、少なくとも一歩さがって、「何をしなければならないから何にならなきゃ」という何の順番を逆にして考えることから始めるしかないだろう。
2015/1/18