信じると好き

車は転がせば必ずぶつかる、バイクを走らせれば必ず転ぶ。何時もぶつけるわけでも転ぶわけではないが何時かはぶつかるし転ぶ。全く種類も性質も違うにもかかわらず、人を信じることと人に騙させることが似ている。人を信じれば必ず騙されることがある。念には念をいれて調べて騙されまいと思っても騙されるときは騙される。絶対に騙されまいと思えば人を信じることをやめなければならない。
ときには人を信じようが信じまいが結果として騙されたということも起きる。相手も騙そうとして騙したのではなく、相手の先の人もそうではなくても、降って湧いた想定外の負の連鎖のようなことが起きて、結果としては騙されたとしか考えらないこともある。誰も騙していないし誰も騙されていない、にもかかわらず見ようによっては騙したとは言えなくても騙されたとは言えることもある。
騙されるのを恐れ、あるいは単に嫌ってでも人を信用せずに疑ってかかれば騙される可能性はゼロにはできないにてしても減らせる。間違いなく減らせるが人を疑ってかかるのを常とするということは、誰もかれもが関係する人たちをお互いに疑うということになる。結果として信用に至る前に疑いの輪が広がる。その輪、疑って確認してを繰り返した末に疑いが晴れたとして、果たして信頼の輪に変わることがあるのだろうか。疑いの輪が信頼の輪に、あたかも蛹(さなぎ)が孵化するかのように変わるとは思えない。いいとこ疑心暗鬼の骨組みに薄くて今にも破れそうな信頼の皮がかぶっている程度だろう。ちょっとしたことでも疑いがひょいと顔を出してそんな皮すぐ破ってしまう。 疑いから始まって一度信頼に至った関係がたわいもなく疑いに逆戻りする。逆戻りしたところからまた信頼に変えられるか。疑いから始まった信頼関係では不可能ではないにして非常に難しいだろう。こうして考えてくると、疑いから始まった信頼関係は脆く、保持してゆくのは至難のことに思える。
人に騙されるようなことはあっても、人を騙す側には回りたくない。騙す気はなかったとしても状況把握を取り違えて人を騙してしまうようなことのない人生でありたいと思ってきた。お人よしの善人気取りと言われようがなんと言われようが人を騙すようなことだけはしたくない。一言で言ってしまえば、人間関係も社会も『信なくば立たず』でしかない。
人を信じる先に人を好きになるという地点がある。後先というのも変なのだがいい言葉が見つからない。両者の違いはレベルにではなく性格にある。人さまざま、いいところもあれば嫌なところある。ある人にとって好きなところが別の人には好きになれないというのもあるだろう。一つの同じ性格があるときはプラスに、あるときにはマイナスになることもある。
信じる(信頼)というのは、相手のいい面を取り出してきて、いい面だけでその人の役どころとしてロジックで付き合ってゆくということだと思う。嫌な面は付き合い場に出てきてもらわないように注意して付き合う。これが信じるという人間関係のありようの限界だろう。人を好きになるとうのは信じるからもう一歩、一歩というには大きすぎる一歩で全く違う次元の話になる。人の欠点、どのような状況下でもそれが優点になることはまずない、誰がどう見ても、欠点以外ではありえない性格、それもその性格のおかげで好きになった人が致命的な傷を負いかねないにもかかわらず、相手の全てを飲み込んで受けれてしまいたいと思う、これが人を好きになることだと思う。 巷の言い草、「あんたほどの男(女)がなんで選りによってなんでなあんな女(男)に」というのが状況を上手く言い表している。これが男女の関係ではなく、どうしようもない状況を一緒に切り抜けてきた男同士の間にも、多少の違いはあって成り立つ。俗に言う悪友や戦友もどきの男の友情。女性同士にも似たような友情があると想像している。
なんであんなあぶなっかしいのと、なんであんなだらしない男と、悪女、悪党が純粋に近い人たちの心をひきつける。そこには説明なぞいらない。ロジックで説明できることでもなし、説明を試みるほど野暮じゃない。人の感情の部分でどうにもならい。ただ、自分の大事なものを失う、多分失うことになるだろうと分かっていながら、それでも人を好きになる。
たとえ騙されることになったとしても人は信じたいし、とんでもないことになりかねない、されかねないのを承知の上でも人を好きになれる人間でありたい。社会に対して、人に対して以上に自分に対して真っ正直に生きて行きたい。理詰めの人生が気持ちを押さえつけることでしかな成り立たないとしたら、そんな人生にどれだけの意味があるのかと思う。最後は自分の気持ちに正直でありたい。たとえそれが傍から見たら不幸に見えたとしても、最後は自分の人生。人様に見て頂くための人生でもなければ、人様の評価を気にした人生でもない。自分の人生。
2015/2/15