横着は美徳だ(改版1)

「頑張れ」、「頑張ります」、研究開発部門や技術部門ではあまりに耳にすることのない掛け声が、営業部門では毎日のように繰り返される。何をどのようにがんばるのか?掛け声をかける方も、かけられる方も話の流れやその場の状況から分かっているのだろう。と思いながらも、どこまで考えているのか気になる。「おはようございます」や「お疲れさまです」という挨拶と似たような、ほとんど口癖になっているだけではないのか。
何をどう頑張るのかと問われて、具体的に何を、どうと意味のある答えを返せる人がどれほどいるのだろう。何をどう頑張るのかがはっきりしないまま挨拶のように使い続ければ、それが何を意味しているのかも気にかけなくなる。
こんなことを言っていると、祭りか何かの掛け声だって意味を気にすることなく、ただの掛け声として使ってるのだから、この「頑張る」というのも、ただの掛け声だと思えばいいではないか。何をごちゃごちゃ言ってるんだと言い出す人もいるだろう。
ところがちょっと考えるとこの「頑張る」という言葉には、思わぬ呪縛と呼んでもいいマイナスの作用があることに気づく。「頑張る」という言葉自体には、何をという目的も、どうするという手段の具体性もない。ないが故にそこにはどこまでという限界がない。限界がないところに艱難辛苦、粉骨砕身を美化する志向が働いて個人として以上に組織として自制が効かなくなる。自制の効かなくなった思考が組織の文化−常識になる。
達成したい目的を曖昧にしたまま、あるいは目的と「頑張る」との間の関係を抜きにして、とにかく頑張で始まって終わる。目的を達成するという本来の目的とは関係なく、どれほど頑張っているかが、どれほど苦労しているかという視点から評価され、賞賛されることになる。そこでは、本来の目的を達成するための手段やプロセスの目的化という馬鹿げた倒置よりさらに性質の悪い、手段やプロセスの中での“苦労”が目的化され、美化されるという倒置に奇形が加わったような状態が常態化する。
この奇形化した思考の呪縛は強いらしく、人生のどの時点で陥ったのかかかわりなく、一度陥った後に束縛から自由になった人に会ったことがない。そのような人たちは、自らの言動が社会の進歩の妨げにすらなっていることに気付かない。己の主張が人間の労働生産性を上げるな、しばしわざわざ下げろというのと似たようなものである可能性を考えることがないのだろう。より多くの苦労をすることがより多く頑張っているということならば、同じ目的を達成するのに、より多くの苦労をすることを求めることに、少なくともそれを美化することになりはしないか?という単純な疑問にどう答えるのか。
人類の歴史は人間一人当たりの生産性を向上させる努力の歴史でもある。農耕具としてはこん棒しかなかった時代から、石器から鉄器の農具を使った時代へ、そこから牛馬の力の利用、さらには農耕機械の活用へ。あまりにも、誰の目にも疑いのないことだと思うのだが。こんな、どう考えても当たり前ででしかないと思うことと全く反対の主張が、ちょっと見渡せばどこにでも蔓延している。
米国で購入したCooking bookに記載されていた料理のプロセスに驚いた。日本の料理本のあまりに煩雑なプロセスを見ると料理ができる気がしない。Cooking book、これならできないはずがないと思わせてくれる。それを手にすれば一目で分かるが、プロセスの数が極端に少ない上に面倒な作業もない。
ホイップクリームはいい例だろう。Cooking bookでは、「電動ミキサーを使え、手でホイップしたら疲れるだけ」から始まっている。「手でホイップした方が愛情がこもっているというが、電動ミキサーでやっても、手でホイップしても出来上がったホイップクリームに違いはない。」一事が万事。手を抜いて?楽しみながら作ったもの、プロの料理人が作ったようにはできないかもしれないが、素人の舌には十分。手をかけた、かけないが味には関係しない。あるいはそこまで舌が肥えてないだけかもしれないが。
随分前になるが、クリーブランドに住んでいたときラーメンが食べたかった。地方都市ですし屋はあってもラーメン屋はなかった。チャイニーズに行ってもラーメンがない。ラーメンの麺はインスタントでしかないにしても手に入る。メンマも日本食料品店に多少古いが瓶詰めのものがあった。問題はチャーシューだった。買ってきたCooking bookにチャーシューの作り方があった。プロセスというプロセスではない。正直、驚いた。半信半疑でCooking bookに書かれているようにやったら、中華風の周囲が赤っぽいチャーシューがちゃんとできた。豚のブロック肉を紐で適当に縛って(縛らなくても問題ない?)、あとはコーラで似るだけで素人目には中華風のチャーシューができる。
同じ目的をもっと楽に達成しようとする新しいやり方を、手を抜くなと非難したり、なかには結果は同じでもそれじゃ真心がこもっていない。。。お客さまへの感謝の気持ちが足りない。。。などという御託。笑止千万、歴史の遺物の戯言と一笑に付したいのだが、この手の遺物に限って歴史?に裏打ちされた権威だけは持っている。
最初にお世話になった会社の工場にあった標語を思い出す。『ちょっと待て、もっと楽にできないか』標語は反語でしかないことを実感させてくれた標語だった。
横着は美徳だ。横着こそが人類の進化の原動力だ。言い過ぎじゃないだろう。
2015/5/10