増え続ける情報と処理能力(改版1)

インターネットの普及に伴い、若い人たちが前の世代のようには新聞や本を読まなくなったという。これを「活字離れ」と呼び、若い人たちの言語能力や知的水準が低下していると心配している人たちがいる。
確かに、電車に乗れば七人掛けの席の七人全員がスマホで何かしている光景が特別なものでなくなった。メールしている人もいるだろうし、ゲームを楽しんでいる人もいるだろうが、日本人が以前より文字を読まなくなったとは思えない。印刷物を通しての文字の利用は減っただろうが、それを補ってあまりあるインターネットの普及がある。手書きではないにしても書く文字の量も逆に増えているのではないか。
知的水準の低下まで言われると、ちょっと穏やかじゃない。知的水準が落ちているというのは、次の世代の日本人の知能が前の世代の知能より低い、俗な言い方をすればバカということになるのか。それが新聞や本を読まないからだというロジックが成り立つのかという疑問より、小学生でも気が付きそうなロジックの欠陥に気が付いていて言っているのではないかという疑問すら出てくる。
そのロジックを振り回す人たち、二種類の人たちがいそうな気がしてならない。第一のグループ、インターネットを使えない、あるいは使おうとしない人たち。その破壊的な情報の量と伝播が、よほど特殊な条件でもなければ印刷媒体という印刷媒体を葬りかねないことを理解し得ない。一言で言えば歴史の彼方に消えて行く方々が、アナクロニズムでとしかいいようがない感情的な主張をしているように聞こえる。末永く元気でいてくださいと声をかけたくなってしまう。
第二のグループに人たちは、自分たちの経済的な理由からの主張に過ぎないのではないかと勝ってに想像している。印刷媒体で禄を食んできた人たちが、“活字媒体”イコール印刷物という自分たちに都合のいいように定義して、インターネットで世界中に瞬時にして行き渡る文字情報を活字媒体から排除しているようにしか思えない。
インターネットであれば、日本語で表された情報だけでなく、海外の情報までが瞬時に得られる。辞書にしても紙ベースの辞書でなくインターネットにいくらでもある。昔のように一部の限られた人たちだけが海外とのやり取りの窓口になるような時代ではなくなった。インターネットのおかげで、誰もが大したコストをかけずに世界中の情報を手にできるようになった。あまりに当たり前になってしまって、以前であれば情報の交差点に立つことで禄を食めた人たちも、その人たちの業界も消滅しないまでも影が薄くなった。
インターネットが普及する前の世代、インターネットの恩恵にあずかることのなかった世代に比べて今のインターネットが当たり前の世代と、どちらが日本に限らず世界の事情に明るいか、疑問の余地などありえようがない。
人々の日常生活に潤いを、快適な生活をさらに快適にするさまざまなサービスと情報がインターネット上で提供されている。中には一時の享楽−それも悪くはないが−の情報に終始するまでものものも多いだろう。それでも溢れる情報が人々の知的水準の向上に貢献していると思う。
問題は増え続ける情報がどれほど信頼しえるか、有意かにある。特定の目的のため(しばし悪意をもって)に流布されている情報に真っ当な情報が埋もれてしまう。絵に描いたような玉石混淆。混淆の常として玉より石が多い。多い石が玉より目立つだけではなく、増えるのも早い。
人の情報収集能力にも取捨選択や処理能力にも限界がある。人間の能力の限界を引き上げる様々な情報処理ツールもあるが、それでも最後は人の判断になる。増える情報、情報の入手が楽になればなるほど、取捨選択と処理能力が問われる。「活字離れ」を問題とする以上に増え続ける情報を取捨選択し処理する能力、ひいてはそのために必須の知的水準を問題とすべきだろう。印刷媒体で得られる情報の質と量に対してインターネットでは取捨選択の後に情報処理のプロセスがあって初めて意味のある情報の質と量。
今、仮に印刷媒体で得られる情報が百個あって、そのうち意味のある情報が三個しかなかったとしよう。百のうち九十七個のゴミを処理(廃棄)してはじめて有意の情報を三個得られる。これがインターネット上で、仮に情報量が十倍になったとしよう。千個の情報があって、有意の情報の割合が印刷媒体の場合と同じ三パーセントだったら、千個のうち有意の情報は三十個、ゴミとして処理しなければならない情報は九百七十個になる。九十七個のゴミと九百七十個のゴミの処理。情報が増えれば、取り除かなければならないゴミの量が有意の情報以上に増える。その上、情報が増えるに従って有意の情報の割合が小さくなる。
有意の情報、使える情報は扱える範囲の量に抑えなければ使い切れない。有意な情報三十個が処理能力を超えていれば、もう一段階取捨選択のプロセスが必要になる。使える有意の三個の情報を抽出するために、九百九十七個のゴミや使えない情報を取り除く作業が必要になる。
好むと好まざるとにかかわらず、インターネットは進化し続け、情報も増え続ける。有意かゴミかにかかわらず情報の氾濫が当たり前になる。氾濫する情報に対してできることは二通りしかない。多すぎる情報に背を向けるのか、それとも不要な情報やゴミを取り除き、有意の情報を抽出する能力を培うか。
新聞や本を読まないことを「活字離れ」として問題としているような状況ではないことは誰も目にも明らかだろう。あまりに多い情報から効率よく有意の情報を引き出せるかということこそが問題で、このプロセスに関しては「活字離れ」と言われている若い世代の方がはるかに優れている。低下した知能や言語能力をもってして増え続ける情報から有意の情報を引き出せるとは思えない。引き出す能力、若い人たちと前の世代の人たちのどちらが長けているか。問うまでもない。
状況が変われば評価基準も変えなければならない。昔ながらの評価基準を持ち出して「活字離れ」とその先の知能の低下。。。、何が問題かも分からずに、あるいは問題をすり変えて云々しているようにしか見えない。
2015/5/31