ブツブツ、ブツブツ

話には聞いていたし、似たようなレベルの人には何人も会ってきた。それでも、今まで会ってきた人たち、全く何もしないという訳ではなかった。ちょっと後ろに引いて見れば、しなくてもいいことをしているだけのこともあったし、したからといってしたことにどれほどの価値や意味があるのか、組織や会社にとってどれほどの貢献をしているかという視点から見れば、した方がいいが、しなくても大して問題にならないようなことをしている人たちだった。
そういう人たち、なかには誰が見てもいつも暇そうな人もいるが、多くは一見几帳面すぎるくらい几帳面に、実に真面目に結構忙しくしている。フツーの人たちとの違いは、その人たちがしていることが、まあ、しないよりはした方がいいかもしれないという程度のことにある。それでも、その人たちの地味な日々のほとんど貢献はないと思っていた作業が、思わぬ時というか万が一のときに役に立つことがある。決しておかしな人たちではない。根っからの真面目さが、不幸にして融通の効かないという一面を前面に押し出してしまって、ちょっと込み入った仕事には向かない人材にしてしまっているに過ぎない。
組織のお荷物と想われる人たちの中には、何をしても必ずと言っていいほど、周囲の人に迷惑をかける、周囲の人たちが後始末に奔走しなければならない事態を引き起こす人たちがいることを思うと、何をしても特別何の影響もないというか、得るものもない代わりに問題もない人たちの方が余程いいといえばいい。
ただ、今回、お会いしたのは、この二種類の方々とはちょっと種類が違った。業務としては何もしていないという点では同じなのだが、今までお会いしてきた人畜無害(失礼)の方々とは違って、何もしないくせに人畜大有害だった。
アパレルと銀行崩れとはと聞いていたが、言動を目の当たりにして、ぼんやりとどんなものかと想像していたのが、心ならずとも実体として理解できた気がする。ちょっと古い言い方になるが似たようなものに“髪結いの亭主”というのがある。アパレルと銀行崩れ、この二者と髪結いのは同じ事を言っているものばかりと思っていたが、両者の間には、己の存在に対する自己規制に大きな違いがあることも教えられた。
髪結いの亭主は自己の存在を主張はしない。できるだけ存在を主張せず、周囲と摩擦を起こすことなどないようにとかなり神経を使う日々だろう。間違っても、思いつくままにブツブツ文句や苦言を言い続けることはない。
今回、お会いした方々、特別何かをする能力があるかないかということではなく、全く何もしようとしない。自分が何かを具体的にしなければならないとか、しようとかいう意識というか常識を仕事の場において習得する機会がなかったのだろう。
あの人たちが一体何をしないというか、そしてしないというだけではなく人畜有害であることは例をあげれば分かりやすい。たとえば、事務所の蛍光灯の寿命がきてちらちらしだしたら、フツーの人は保全担当に交換してもらえるよう連絡くらいはするだろうし、小さな組織であれば自分で購入して交換する。今度お会いした人たちは、ちらちらしてしょうがないとブツブツ文句は言うが、自分では何もしない。宅配便の集荷依頼もしなければ、宅配便の集荷が遅ければいったい何時来るんだ、くるんだか来ないんだかわからなきゃ。。。見積依頼はしたが、いったい何時見積が来るんだ、なんでこんなに時間がかるんだ。。。思いつくままに四六時中文句というか苦言とでもいうのか、ブツブツ言い続ける。電話一本なら右手だけで、メールなら指二三本で書けるし送れる。でも、自分ではなにもしない。
実務というほどのことでもない、ただの実作業にすぎないのだが、何もしない。アシスタントというのか、こまめに何でもしれくれる女性陣か優秀な部下でもいたのだろう、自分では手を出さずにきた。そのせいで、四十、五十にもなっても自分がブツブツ言っていることをするに、どのような能力の、しばし特殊技能の人がどのくらいの時間をかけなければできないのか、またそれにはどのくらいの費用がかかるのか大雑把に見積もることさえできない。プロの翻訳屋がひと月かかる、翻訳コストが五十万は下らない翻訳が、英語を多少知っている人なら、ちょいちょいと数日で、数万円でできると思っている。自分がまともに仕事をしてきていないので、他人の仕事も自分がしてきた程度のやっつけ仕事のレベルとしか考えられない。
何もしないで歳だけとって、自分がブツブツ言っていることをするには周囲の人たちにどれだけの追加の負荷がかかるかの想像もできない。不幸にしてあの人たちの周囲にいる人たちは結構忙しく仕事をしている。忙しく仕事をしているのを見ているのだから、フツーの神経の人であれば、些細なことは自分でやってしまおうという気になるものなのだが、病的とも言える依存症とでもいうのか自分ではなにもしようとしない。すること、できることはブツブツ言うだけ。ブツブツにも随分慣れたが、いくら慣れても朝から晩までブツブツを聞かされるのは気持ちのいいものではない。ブツブツアレルギーになる前に、ブツブツ言うだけの存在に多少の憐憫の情さえ湧いてきた。
ブツブツつぶやくことしかできない人たち、社会人になったときには既にブツブツいうだけの人たちだったとは思えない。卒業したときには特別な特徴もなかった普通の人たちが就職してある特定の企業文化に適合して会社人間として生きているうちに(成熟してか退化してか)ブツブツいうだけで具体的な作業はなにもしない人種に形作られて(成り下がって)いったとしか考えられない。
就職先の環境に合わせて歪んだ人間になることが一端の社会人になることではないはずと思っていたいのだが、もしかしたらと思うといったい社会とは、社会人とはなんなのか。社会やその主要経済主体である企業は自分たちに都合のいいように人々を奇形化してゆく組織体なのか。その組織体を構成しているもの社会人−かなりのレベルで適合しえた−奇形化の進んだ企業人が次の世代の人々を奇形化してゆくのが社会であり企業なのか。そりゃないという気持ちが強いが、周囲を見渡せば一概に否定しきれない、それでもそりゃないって。。。
2014/10/12