ゆっくりした世界もいいけれど(改版1)

流れの速い渓流では自浄作用で常に水がきれいに保たれる。流れの遅い、あるいはほとんどないところでは、水が淀み汚れたままになる。きれいな水にしか棲めない生き物もいるし、淀んで、(人間の目には)汚れた水を好んで棲む生き物もいる。生き物としてどちらが上とか下はない。
業界(企業)にも水の流れに似たようなところがあって、いつも突風が吹き荒れているような感じで非常に変化の速い業界(企業)もあれば、まるで十年一日の如く変化らしい変化のない業界(企業)もある。どちらの業界(企業)の方を良しとするかは、先の生き物と同じで個人の嗜好ででしかない。

ただ、一般にはあまり極端でない、変化の早さに疲弊しきってしまうことのない程度の変化のあるところを好む人が多いだろう。これは個人の嗜好の問題というより、環境も普通白か黒かという極端なケースよりその中間の灰色ケースの方が圧倒的に多く、他と比較して変化が多いか少ないか、好きか好きではないかということからくる。

下記は程度の違い、白か黒かの中間の灰色のなかでの、比較しての話しなのだが、いちいち。。。と比較してと書くのもうっとうしいので、はっきり言い切っている。

変化が少ない業界の変化の少ない企業で長年同じような業務をし続けると、どのような文化や体質、さらには思考や志向などを生み出すことが多いかについて、ちょっと考えてみた。限られた経験と稚拙な観察に加え、個人の嗜好からくるバイアスがかかっている。浅薄な理解と考えとの謗りを免れない。それでも一考の意味はあると思う。

長期に渡って似たようなことを繰返してきているので、日常業務ではバタバタすることもなく業務から直接受けるストレスは少ない。組織内での言い合いが起きることも少なく人間的には穏やかな人が多い。対人関係に気を配り、物腰も話し振りも申し分のない、如才のない社会人に見える。しかし、そのような穏やかなところにも、あるいは、だからこそなのかもしれないが、それだけで終わらない人たちもいる。無風状態のようなところでは共通の敵を外に求められない。結果的に、日々競争相手と感じることができるのは直接業務で関係する同僚になる。
ところが、十年一日の如くの業務では同僚と差をつけようにも、大きな差がでるようなこともない。大きな変化がないということは、大きなリスクを背負った仕事もない。リスクが少なければリターンも少ない。誰がやっても今までと似たような結果にしかならない。似たような結果では能力の違いがはっきりしない。このような状況では処世術の優劣が将来を決定する最大要因になり、仕事より上司との同僚との付き合いが大事になる。阿る術の優劣が雌雄を決する社会と言ったらいいだろう。もっともその世界の人たちにしてみれば阿る術こそが能力ということになるのだろうが。

そのようなところでは、一見表面的には良好な人間関係を保ちながら、水面下で策を弄し、同僚を出し抜こうとする陰湿なタイプが多くなる。典型的な小官吏集団が形成され、些細なことに、特に自らのマイナスにつながりかねないようなことに対しては過剰とも思える反応をしながら、決められたことを決められたように、昨日と同じように今日も繰返してゆくことになる。
大きな変化がしょっちゅう起きる業界で戦い続ける生活より、考えようによっては、大きな変化のない安定した方がいいではないかと言う考えも成り立つ。ただ何の変化もない退屈な環境は御免だ。自分の能力を試したいという人もいるだろう。また状況次第でこっちがいいと思うこともあるし、あっちがいいと思うこともあるという人もいるだろう。

ただ、変化の少ない環境で似たようなことばかりやってきた人たちが業務を通して積みうる経験、会得し得る社会認識、専門業務を遂行してゆくために必要な知識などは変化の多い環境にいた人たちが得るものに比べて、明らかに少なく偏ったものになってしまう。知識の面以上にストレスやプレッシャーに対する耐性や、困難な事柄に立ち向かい、問題を解決してゆくために必須の精神的な強靭さでは比較することに意味のないほど両者の間には違いが生まれる。

どちらを志向するかはあくまでも個人の自由。ただし、その自由が生み出すものに対する責任は持たざるを得ない。ここには持たないという選択肢を選ぶ自由はない。ましてや変化の激しい環境で培った他人の能力に嫉妬するなど、醜悪以外のなにものでもない。
2016/7/24