忘れて得たもの(改版1)

忘れっぽいのは半分以上遺伝のせいにしてきた。子供のころ歩いて五分もかからない酒屋にお使いに行かされて、酒屋に着いたときには何を買ってくるように言われたのかを忘れていた。今のように携帯電話があるわけでもなし、家に帰って何を買ってくるのか聞いてまた出かけた。これが一度や二度ではないから歳をとって物忘れがという、言い訳すら憚る。ここまで物忘れがいいにもかかわらず忘れてしまいたいことを忘れられないでいることに嫌気がさすこともあるし、何を忘れたかだけは忘れないというのか覚えていることも多い。何を忘れたかも忘れてしまえば、何を忘れたという記憶もないのだから何を覚えている、覚えていない−忘れてしまったという面倒な話にならないかもしれない。
技術の技術たる所以の仕事から離れて久しいからだと自分にいい訳しているが、中学校の理科に毛の生えた程度の力学計算や電気関係の計算に戸惑うのがフツーになってしまった。Webであちこち調べて見つけた計算式をこれこれと思いながら使うならまだしも、見つけた計算式がどうもしっくりこないというのか、おぼろげに覚えている計算式とはなんか違うような違和感をぬぐいきれないまま使うことがある。
それでも、やっているうちになんとなく記憶の底に埋もれていた、知識というより感覚のようになってしまった、知っていたことの残骸が出てきて、それがWebで見つけた知識?としっくりいって妙な安心感にほっとすることがある。仕事でそんなことをしていると忘れてしまったことを思い出すこともあるが、その前に忘れてしまったことを忘れていたことに気づくことがある。何を忘れてしまったかに気づくと、そこから忘れてしまったことの総体がぼんやりと湧き出てくるような錯覚?に陥る。ぼんやりしすぎていて知識として使いようのない代物なので錯覚とでも言った方があっている。使えようのない代物、それは社会経験を積む過程のなかで、歳をとるとともに失ってしまったことを象徴的に表しているような気がしてならない。
ぼんやりしている代物のなかからそれでもまだ何らかの実体を保っているようなものを見てゆくと、多くが学校で学んだこと、若いときに仕事や何かで必要に迫られて勉強したこと−多くが学校で学んだことの延長線のことが多い。学校で学んだことやその延長線の知識だからだろうが、忘れたことのほとんどにはきちんとした名前がついている。たとえ正式な名前を思い出せなくても知識としての輪郭ははっきりしている。当然といえば当然の話で多くが中学校やその延長で学ぶことだから特定の領域に限定された基礎教育-初等教育で身につける知識だからだろう。そこではいくつもの領域にまたがっていることもなければ、明確な答えのない思索に関係するような輪郭のはっきりしない知識はない。
社会人になって特定の職業に就いて仕事を通した経験やその延長線で学び、新しい知識を吸収してきた。それらを総称して社会経験とでもいうのだろう。社会経験と一口で言ってはいるが職業や職種によって知識には様々なものがある。そのせいだけではないだろうが、知識にきちんとした名前がついているのかというと、なんらかの資格に関係でもしない限り名前という名前はついていない。きちんとした名前がついているような知識や名前が付けられるような知識を色々組み合わせて発酵して生成した社会経験と一言で呼ばれる知識。その簡単には名前を付けれない、言い表せないという知識こそが社会経験によってはじめて体得できる知識だと、かなりの不安の混じった、それでもちょっとした誇りがある。
例として適切ではないかもしれないし、正論の体をなした反対意見もでてくることも承知の上で例として一つあげる。工業技術関係の翻訳者でできる翻訳者のどれほどが工業技術翻訳者の資格を持っているか?また、資格を持っている翻訳者と資格を持っていない翻訳者で翻訳能力の違いはあるのか?つたない経験から言わせて頂ければ、資格を持っている翻訳者の翻訳の方が危ない。もっている人に限って英語使いが多く工業技術や一般科学に関する知識も皆無とは言わないが限られているし、中には興味すらない人もいる。
社会に出て社会経験を積んでさまざまな事を学ぶ。それと平行して実務で使わない様々な基礎知識がおぼろげになってゆく。基礎知識にはそれぞれきちんと名前があるが、社会にでて学ぶ知識(群)には特定の名前もなければ、これをあえて知識と呼んでいいのかと思うものも多い。得るものにはこれといった体系もなくただ知っているというだけの知識で、失ってゆく知識はきちんと名前もついていて体系だっている。きちんと体系だったものを失って、ただの知っているというだけのものが積み重なってゆく。積み重なったものの重みや意味や価値、失ったものより意味も価値もあるのか、ここで意味や価値を問うこと自体が間違っているのかもしれない。それでも歳とともになんらかの成長をして行きたい、そうでなければと思っている者には失ってゆくものより得て行くものの方が価値も意味もあるはずだと思いたい。そうとでも思わなければいったいなんの人生なのかと、たとえそれがはっきりした名前で呼べなくても。。。
2015/2/10