トラブルのおかげで

フツーに仕事をしていれば必ずトラブルに遭遇する。自分の不注意や知識不足で招いたトラブルもあれば、いきさつに関係なく転がり込んでくるトラブルもある。職責や分掌にはクレーム処理など関係しようのないはずなのに、いくつもの会社でクレーム処理の実質的当事者にならざるを得なかった。
新しい市場や顧客の開拓を進めれば、知らないことばかりで予想だにしなかったトラブルに遭遇する。いくらトラブルに対処するため事前準備をしたところで対処できるのは想定内のトラブルに限られる。トラブルは計画的に起きるわけでもないから対処の事前準備には限界がある。ほとんど起きてからの後追いの処理になる。
トラブルの解決−過去の清算に工数をさいていたのでは市場開拓どころではない。どころではないのだが、起きてしまった、目の前にあるトラブルをきちんと処理しないことには新規開拓どころでもない。まるで(トラブルをかかえた)負傷兵が匍匐前進(市場開拓)しているところに思いもしないトラブルが転がってくるようなもので、トラブルと寝起きしていた。
はじめて客から“クレーム処理”と聞いたとき、何を言われているのか分からなかった。少なくとも席をおいた外資ではその言い方を耳にしたことはなかったし、ましてやクレーム処理を職責としてうたった部署などなかった。業務の一環としてクレーム処理−トラブルを解決しなければならない立場にいるかどうかだった。ここではクレームとトラブルをほぼ置き換えのきく同義語として使っている。
誰もトラブルの渦中にいたくはない。そこに解決に向けた作業にリソースをとられれば営業でもアプリケーションエンジニアでもマーケティングでも本来の仕事が滞る。誰もトラブルを計画立てて、引き起こそうとして引き起しているわけではないから、トラブルの発生は予期できない。予期していないことに工数を取られれば自分の本来の責務をまっとうできないと心配になる。トラブルの解決を業務とでもしていない限り、この心配は全ての人に共通している。共通してはいるが、組織上や担当業務によって、トラブルを解決しなければならない責任の重い部署と重くはない部署がある。また、責任というわけではないにしても、解決しないと本来の仕事をしえない立場にいる部署もあれば人もいる。
トラブルが起きてしまった経緯や原因に関係なく、できるだけトラブルを自分のものと考えず、なんらかの、しばしどうでもいい理由を探してでもトラブル解決の当事者にならないように周囲の部署や関係者に押し付ける人がいる。トラブルとまでゆかなくても何か面倒なこと、手間のかかりそうなことがあれば、周囲に押し付ける。
本来の業務に専念する。表面的な結果だけからしか評価しない、できない企業文化のもとではいかにクレーム処理などの面倒なことや手間のかかることを他者に押し付けられるかが組織内で成功をおさめられるかどうかの重要な能力になる可能性すらある。そのようなところでは、トラブルを抱え込んでしまう、引き受けざるを得ない、解決しなければならない立場にならざるを得ない人たちは貧乏くじを引いたことになってしまうのか?
“Yes”と思う人が多いだろうが、簡単に”Yes”といいきれないところが面白い。トラブルを起こさないように注意をするあまり、チャレンジしないければ今までしてきたことの範疇かそこからちょっと膨らんだところまでに仕事を抑えることになる。されとて闇雲にチャレンジすればトラブルが起こって当たり前の状況に身をおくことになる。トラブルにならないように細心の注意を払いながらも自分の、自分たちの領域を広げて行く−これが新技術の開発だったり、今まで手をつけてなかった市場への進出だったり、新規顧客の獲得だったりする。
今までしたことのないことをし続けなければ企業としても個人しても成長しえない。トラブルとは成長するために必ず付きまとうものでしかない。これを避けていては成長しえない。トラブルを解決することから自分たちの今まで限界、その限界をどうやって乗り越えてゆくのか、たとえぼんやりであっても道筋が見えてくる。トラブルから距離を置いて現状のありようのなかで上手に職務を遂行してゆくだけで将来があるはずがない。組織も個人もトラブルを乗り越えることで知識や能力の向上を図ってきた。今までのところでトラブルのない順風満帆−トラブルの解決に四苦八苦しないことが将来を閉塞してしまうことに気づかない人たちがいる。
こう考えてくると、自分が引き起こしたわけでもないトラブルが解決を求めて転がってきたら、喜ばなければならないと思える。トラブルがなければ解決する対象がない。それがなければ人も組織も育たない。トラブルに埋もれた日々に嫌気がさすことも多いが、よくよく考えれば鍛錬の機会を頂戴できたと喜ばなければならないのだろう。
2014/12/14