今日の努力、明日への努力(改版1)

向上心という言い方もあるし、夢と呼ぶ人ともいれば野望と呼んだ方があっていることもあるだろう。今の自分の能力や努力では得られないものを欲する人の気持ちが個人の能力を引き上げ社会も変えてきた。その変化の多くが長い歴史で、また広い意味でみれば社会の進歩と呼んでいいのだろうが、時には紛争や戦争の原因となってきた。夢と野望、響きは違うが一つの同じことを方や綺麗な、方や野卑な言い方で言っているにすぎない。
多くの人たちが夢を追いかけるために、野望を実現するために切磋琢磨して持てる能力を引き上げてきた。能力は生物の生理機能に似ていてそのものが存在としてあるだけでは衰退する。外からのストレスに対応する過程を通じて機能や性能が向上してゆく性格のもので、こうありたい、こうあらざるを得ないという高みを求める過程で成長や向上の可能性がある。
こうありたいという高みを描ききれたとして、どのようにして現在の能力のレベルからその高みを実現しえるレベルまで引き上げるのが課題になる。まず現状と理想(夢や野望)のギャップを明確にしなければならない。このギャップが現実離れしていれば雲をつかむような話でしかなく、よくて夜郎自大で終わる。ところが歴史上の大きな成功では、当初は現実離れしていたギャップを埋めきって、そのうえに山を築いている。
それまで通りの努力の積み重ねだけではギャップと呼ぶに値するギャップは埋めきれない。そこではギャップを理解し状況に応じて必要な分析した上で、ギャップ埋めの作業をするための基本的な能力−今までの努力とは違う努力をし得る能力の開発が先行してか平行してか進められた。同じことを同じように繰り返す努力の積み重ねではギャップと呼べるギャップは埋められないし成功と呼べる成功も得られない。
同じことを繰り返してゆくのとは種類も強度も違う努力を生み出すために今までとは種類も質も違う視点が必須となる。同じことを同じように繰り返す努力をし続けてきた人たちには、不幸にしてそのし続けてきた努力がただ一つの努力としてのありようで他の種類の努力があるかもしれないと考える、気づく能力が萎縮しているか、なくなってしまっていることがある。例として適切かどうか分からないが改札を思い浮かべればいいかもしれない。長年駅で切符を上手に切ること−疲れも少なく早く間違いなく切る(今日の)努力から自動改札を思い、それを開発する能力の育成(明日への努力)に視点は行かない。
生物の生理機能の成長と萎縮と似たところがある。ストレスがあってはじめて成長するし、なければ生理機能は成長しないだけでなく萎縮する。生理機能はかけられたストレスに対抗するように、そのストレスを跳ね返す方向にのみ成長する。日常業務でさまざまなストレス−負荷を受けて能力が向上するが、それは受けるストレスに耐える、撥ね返す方向に限られる。この限られた方向への成長が限られた方向への努力−業務をこなしてゆくという方向に人を必然的に牽引する。今まで通りのやり方に最適化された努力に人を拘束し、それ以外の、可能性としてはあったかもしれない種類の努力の芽を摘んでしまう。
ものをしてゆく努力と、ものをするための能力を向上するための努力。前者だけでは個人としての成長も望めないばかりか、もし希望なり野望をもったとしてもそれを追いかける能力は培われない。何らかの希望なり成長なり、さらにそれに応じた対価を期待するのであれば、何を得たいのか、そのためには何を理解して判断できる能力が必須なのか、その将来にはどのような能力が必要とされるのかを理解し、その能力を得るための努力が必要となる。
将来の希望や野望を追いかけるために必要な方向のストレスでなければ、培われる能力にたいした価値もない可能性が、極端な場合には邪魔な能力になってしまう可能性がある。ブローカとしての交渉能力に磨きをかけても、歴史も代紋もあるまっとうな企業の本業での交渉能力にはなんの役にも立たないだけでなく、そのような能力を発揮すれば存在自体を疑われる。
夢や希望、野心を追いかけるのに必要な能力を培う努力が必要になる。この能力は今目先にある業務なり作業を効果的かつ効率的に遂行する能力の向上とは違った領域での能力の開発になる。さらに能力の開発には実践でその能力を使う機会が必須となる。兵は戦を生き抜いてはじめて兵になる。演習をいくら繰り返しても兵にはなれない。
ではそのような機会はどこにあるのか。置かれた環境−市場のこともあれば、社内組織のこともある。。。−での自分や自分たちの今のありようと将来のありようを描ききる意思と能力のある人には必ず機会がおとずれる。極端な場合は機会が体当たりしてくる。描けない人たちや描いたものが間違っていたり歪んでいれば見えるものも見えない。たとえ見えていると思ってもそれは見えていると思っているだけでしかない。
将来のありようを描ききる意思と能力のある人たちを巷ではVisionaryと呼んでいる。
2015/3/6