群れれば弱くなる(改版1)

先日(2015年4月11日)、鈴木邦男さんのお話をお伺いする機会があった。不勉強というより世間知らずで、どのような方なのか全く存じ上げなかった。開口一番、“右翼の異端”と自己紹介された。自分ではリベラルでしかないと思っているのだが、周囲には(なまくら)左翼と思われている者、右翼の方の話を聞いたところで何の足しになるのかと、ちょっと引き気味で話を聞いた。
お付き合いさせて頂いてきた方々の多くが左翼、あるいはどちらかと言えば左翼の人たちだった。なかには左翼というより社会問題が気になって、見過ごせないと言う社会運動家とでもいうのか善意の方々もいる。交友にも多少の広さがあるのだろう、視点のありようは近いにもかかわらず、それでも同じ左翼なのかというほど遠い人たちもいれば、ほとんど右翼と言ってしまった方があっている人たちもいる。
お聞きして、すぐに変な感覚に戸惑った。近い遠いにかかわらず左翼の方々やその外郭にいる善意の方々の話より、自称“右翼の異端”の鈴木さんの話を方が、いくつも合意しかねる点があるにもかかわらず、たいした抵抗がないというのか、ひっかかるものが少なくて、ストンという感じで入ってきた。なまくらでしかないがリベラルでありたいと思っている、左翼思想から外れることはないと思ってきた者にとって、右翼、たとえそれが異端だと言われても、なぜこれほどまでに親近感があるのか。天皇や右翼の人たちの言動に対する評価など、とても合意しようのない点も多いのだが、人としてのあり方ようとでもいうのか、本質的なところで妙に納得してしまった。
強い口調で「人は社会集団を成せば強くなれると思っているようだが、人は群れると逆に弱くなる」と言われたときは、いつも考えてきたことを言われて合意する以上に驚いた。左翼に限らず右翼も常に群れているではないか。まさか弱くなるために群れる訳でもないだろう。異端と言われる所以なのか。
人に限らず動物が群れを作ったり、集団や社会を形成すれば食料の獲得にも外敵からの自己防御にも有利と考えられてきた。誰も否定し得ないだろう。群れや集団を形成すれば、一個の固体として認知能力や判断力だけではなく、他の個体の能力も利用できる。利点はあっても欠点などありえないように思える。
ところがちょっと引いて考えれば、そこには大きな危険があることに気づく。他の個体の能力を利用すれば、一固体としての能力の開発や進化が妨げられる可能性がある。また人が集団から一歩進んで社会を形成すると、形成された社会の志向や社会の中心的な存在の一部の人たち−宗教的や暴力的、社会的や法的(いずれも人工物に過ぎない)な支配者、学識経験者などの主張やマスコミの論調に無意識に追従することになりかねない。さらに無意識のうちに追従した人たちによって形成される大勢に引きずられる可能性がある。気が付かないうちに個としての認識能力や判断力、さらには責任すら明け渡して、社会や集団の構成員の立場にいることになんら違和感すら持たないところまで堕しかねない。
人としてのありようの本質は、一個の独立した個人として、認識し、考え判断して、行動して、最終的にはその結果に対する責任を負うことにある。それのどれもこれもを社会なり大勢なり、所属した集団にまかせっきりにしていることに気付くこともなく、その状態を問題と認識する能力すら放棄したら、はたして人としての存在といえるのか。
能力も責任も、たとえ一部であったとしても、放棄した人たちが社会や集団をつくる。他の人(たち)の認識能力や判断に依存した人たち。あえて厳しい言葉で言わせて頂ければ、「ゴミは群れる。群れたゴミが大勢を形成し、人として社会に責任をもって生きようとする人たちを疎外しているのが社会ではないのか」という疑問すら湧いて来る。
日本語では相互依存という言葉になっているが、英語には分かり易い言葉のセットがある。一方的に誰かに寄りかかってしか存在しえないのを「dependent」、親に養育されている子供がその典型だろう。人にも社会にも無関係に生きようとする「independent」、ここから国家の話であれば日本語でいう独立なる。お互いの存在や能力、全人格的なことを認め合った上で相互に対等な関係で集団なり社会なりを構成するのが「interdependent」。
米国の産業用制御機器メーカで、業務を遂行するためでしかないが人と人のあり方を「interdependent」であるべきとしていた。
“右翼の異端”を自認される鈴木邦男さんの話を聞いて、社会を右から見て右翼、左からみて左翼だと言っているだけで、人としての本質的なところでは右も左も似たようなもの、本質的には何も違わないということなのかと思った。
2015/6/7