計画性−自己束縛の悪癖(改版1)

計画性やそれと似たような気持ちは、いつももっている。巷の常識に照らして、これは計画と呼んでいいだろうと思うものもある。それでも、多くはぼんやりしていて、計画と呼ぶのをためらう。
雲を掴むような話でもないし、期限内に達成しなければならない、十分に明確な目標もある。目標達成に向けていくつも段階に分けた個々のプロセスも段階ごとの目標も、多少のマージンをとってしっかり決めている。そこまではっきりしているのだから、計画と呼べる実施プロセスもあるはずと思おう。そのあるはずのものが、あるようなないようなで、なかなかはっきりしない。

目標を達成するためのプロセス、そのプロセスを実行する計画をと思うのだが、何をどのようにしたら目標を達成できるのかがはっきりしない。やろうとしていることが、今までやってきたとこと全く違うわけではないが、キーになるところで大きく違う。そのため、今までとは違ったやり方を模索せざるを得ない。リソースや時間の制限ははっきりしているが、これと決まったやり方がない。というより、やり方もやりながら考えなければならない。

厳密なとまではゆかないにしても、目標を達成するために、しっかりした計画を立てなければという強迫観念に近いものがある。いい歳をして、計画もまともに立てられないのかと自責の念に駆られた。上司の目より率いた部隊のメンバーに申し訳けないという気持ちがあった。

巷でいう計画すら立て切れないマーケティング部隊のトップ。それだけでも解任するには十分すぎる理由になる。計画とは一体なんなのか。それを考え、立案して実行する計画性なるものが、どのようなものなのか気になって、Webでちょっと調べてみた。
反論しがたい形ながらの正論?が並んでいる。フツーの人たちがフツーに見るサイト。受験勉強やダイエット、仕事に資格試験などを目標の例としてあげて、計画性がないから目標を達成できないと話を始めている。計画性が身につかない原因とその原因を解消する方法まで解説している。
解説を読むと、まず目標を具体的に明確にしなければならないとある。その目標を大きな目標から逆算して実現可能な小さな目標に落とし込んで。。。設定した目標達成への計画表を作って、進捗を「見える化」して管理する。実行可能な小さなステップに分けて、小さなステップの目標を達成できたという成功体験の積み重ねが大事。。。

読んでいて何がアドバイスなのか分からない。言葉が違うだけで、巷で禄をはんでいるコンサルの愚にもつかないプラン・ドゥ・チェック(・アクション)に定型化されたマネージメントサイクルと何が違うのか。何か特別かヒントになるようなことがあるとも思えない。多くの人たちが目標をもって、その目標を達成するために努力している。それが三日坊主に終わったとしても、いつでもどこでも、たとえ明示的でなかったとしても、そこにはプラン・ドゥ・チェック(・アクション)がある。

この類の定型化した問題提起と問題解決には根本的な欠陥が二点ある。一つ目は、目標設定として何をするかも、しばしどうやってするかの手段も定型化していて、既にあるものの中から、どれを選ぶかでしかない場合の話でしかない。それで済むのなら世話はない。視野の狭さに気が付いてか付かないでか、多分付いてないのだろうが、狭い視野での型押ししたような話を売り物にする幸せな人たちだ。二点目は、計画通りにゆかなかったときに、どうすればいいのかのアドバイスがない。
できてあたりまえのことでもなければ、計画通りにことが運ぶことなどない。計画を立てるというのは、計画通りに行かなかった時に、役に立たないかもしれないが、中止することも含めて、いくつかの策まで考えておくことを意味している。それなしの計画は、計画というより計画のあらすじに過ぎない。

高校や大学かなにかの受験対策とかダイエットや定型業務の改善とか目標がピンポイントで決まっている場合は、することは、目標を個々の要素に分解して、分解したものをその段階の小目標とするくらいで十分だろう。その小目標も達成し易いレベルに分解してゆけば事足りる。

実社会の多くの課題では目標をピンポイントには設定しえない、あるいはし難いことにある。リソースにも時間にも制限があるからと、従来からのやり方で出来る範囲のことを目標として、その達成を目指したところで、本来目標としなければならない根本的な改革や改善はできない。
達成できっこない目標を掲げてもしょうがないが、達成できる範囲に目標を収めようとすれば、何のために何を目標とするのかという始まりのところで思考が矮小化してしまう。
具体的には見たこともない地点への改革や改善を進めようとすれば、意識的にある広さを持った、ぼんやりした目標を設定しておいて、目標達成を目指すしかない。作業をしているうちに、当初目標としていたものが本来あるべき目標とはちょっと違うということが見えてくることがある。やっている途中で、目標がだんだん鮮明になってくることもあるし、目標を設定し直したほうが得策というケースも多い。

そこでは当初設定した目標を達成することが、本来の目的ではない可能性を許容する柔軟な姿勢が求められる。ある島にたどり着くのが目標で、その目標に向けて向かっている途中で、ちょっと方向は違うが、そのある島よりもこっちの島の方がいいという島が見つかったら、どうするか。こっちの方がいいと思える島を無視して、初心貫徹で最初に決めた島に到着する目標に邁進すべきなのか。議論の余地があるとも思えない。ことは、ある島にたどり着こうとした目的がなんなのか次第ということだろうし、ときには、その目的を変更した方がいいこともある。
島に向けて航海をするにしても、未知の領域への未知の探索航海であれば、勝手知ったる航海のようにはゆかない。試行錯誤どころか、計画そのものを放棄することになりかねない決断を迫られることもある。どんなに簡単なケースでも、巷で提供されているダイエット方法のように、やることもやり方も決まっているわけではない。常に状況を把握して、状況に応じた柔軟な意思決定が不可欠になる。

計画や予定を立てるということは、計画や予定が立てたときとは違う状況になったときに、どれほど柔軟に計画や予定を変更して、それでも目標としたところに、あるいは目標としたものを超えたところに、どれほど近づけるかという話でしかない。自ら立てた計画や予定にしばられて、状況に応じた柔軟な対応をし得ない計画や予定は利点より害の方が大きい。
自分(たち)で立てた目標や計画、その計画の実行に自分(たち)が縛られるほど馬鹿げたことはない。しばられない、変え得る自由となし得たことと、なし得なかったことに対する責任−事後策、あるのはこれだけだろう。
2016/7/3