書き残す(改版1)

感動したことや驚いたこと、がっかりしたことや憤慨したこと、うんざりした経験、そりゃないということに遭遇したとき、・・・そのときどきの思いや考えたことを整理して書き残しておこうと思いたった。ポツポツ始めて、かれこれ十年になる。

仕事で忙殺されていたし、バカげたことでいらいらしていたことも多い。家に仕事を持ち帰る習慣はないが、気持ちは仕事を引きずっている。機械でもあるまいし、スイッチを切り替えるようにはゆかない。どこにいても仕事のことが頭からはなれない。体は家にいても、気持ちは家にいない。家族には、オヤジが何にイライラしているのか、憤慨しているのか、めったにないが何を喜んでいるのか分からない。

説明しようとすれば、状況に至るまでの経緯から、その経緯を作り上げてきた人や組織について、大まかにしても背景まで説明しなければならない。そもそも、家でそんな話は誰も聞きたくない。時々の見えることからだけでは、オヤジの気持ちや精神状態、それを生み出した背景など想像もつかないし、する気もない。ましてや子供は中学校から高校の歳で、説明したところで理解するだけの知識がない。状況を想像しえる社会経験を積まない限り、聞いたところで、何も分からない。
子供たちが社会に出て、そこそこ経験して、それなりの理解をしえる歳になったときに、書き残したものをみて、あのときオヤジがぶつくさ言っていたのは、こういうことだったのかと多少なりとも想像できれば幸い。読んだものから何を拾うかは、何を経験して、そこから何をどうみるかで違ってくるが、それでも書き残しておけば、何かの時に参考くらいにはなるかもしれないと、淡い期待から始めた。

[思いつく]
思いついたものを思いついたままに書いたもので、これといったテーマやストーリーはない。幹や骨格のようなものは、はなからないから、書いたものを読んでいっても、必ずあるのは「わたし」だけで、全編を貫く底通したものはみあたらない。
書き始めて、書く書かないの前に、何かに気がつくというのか思いつくのが、始まりだということに気が付いた。当たり前のことで、今さら何をと思うのだが、始めてみるまで、この前提があることに、ぼんやりしていて気が付かなかった。はじめにあるのは、言葉でもなければ思考でもない。気が付かなければ、思いつかなければ、何も始まらない。(もっともその基には言葉があるのだが。)

そもそも人間が何かを考えたり、何かをするのは、何かに気付いたり、思いつくというきっかけから始まる。その気付くのや思いつくのが、いつどこで何に付いてというのに、特別これといった規則性もなければ、類型化できる傾向もない。トイレでしゃがんでいて、寝ようと布団に入って、ふと何かを思いつくことが多いと聞いたような気がするが、布団に入ってというのはあるにしても、思いつく場所や時やその他の条件に特別な傾向がない。どこかを歩いていて、何かの店のなかで、エスカレータで上がっているときに、駅のホームで電車を待っているとき、・・・どこでも何かのきっかけ、それも状況とたいして関係のない、なぜか分からないボヤっとした気分のようなきっかけから、気にしてきたことや、考えてきたことがポロっと浮かんでくる。

[メモする]
浮かんできたことを、メモしておかないと、何秒もしないうちにフワッとなくなってしまう。高速で街中を走っているようなもので、見えたと思った景色は一瞬で過ぎ去ってゆく。過ぎ去って、あああの景色と思う頃には、景色がなんなんだったか分からなくなっている。
ポロっとしたものが何なんだったか思い出そうとするのだが、思い出せることはめったにない。忘れてしまって、何週間、ときには何か月も経って、同じことをポロっと思い出す。メモにでも書いておかないと、このポロっととフワッとを繰り返すことになる。書いているときには、はっきりしたイメージのようなものがあって書いたメモなのに、後になってみると、何を気にして書いたメモなのか分からないことも少なくない。

ノートはバッグの中に、手帳は上着の内ポケットかバッグの中に入っている。それをとり出してというのが意外とめんどくさい。 手帳もノートもそれなりの大きさと装丁とでもいうのか格好になっているから、がさばる。上着を着ていないこともあるし、できる限り、これ以上はないところまで簡素化したメモ(帳)を作った。メモする紙以外を最小限にしたものだから、作ると言ってもしれている。七十五ミリ角のポストイットに、気の利いた表紙を付けた。今使っているのは、百均のポストイットにEstee Lauderの袋から切り取ったカバーが付いている。金線まで入った表紙、一見Estee Lauderの粗品のように見えないこともない。
これならズボンのポケットでもどこに入れても邪魔にならない。ポロっとでてきたものを書いて、要らなくなれば捨ててしまう。痛んだら、また新しいのを作る。図書館で借りてきた本には、ポストイットを何枚か貼っておく。借り物の本には書き込めない。ポストイットがメモとしおり代わりになる。

寝ていて、何かの拍子に目が覚めたときに、メモできるようにとノートと鉛筆を枕の近くに置いておいたこともある。それでは、電気を付けなければ何も見えない。横になったまま殴り書きするから、後で読もうにも読めないことも多い。一人者でもなし、電気を付ければ、うっとうしがられる。思いついたのは目覚まし時計代わりに使っている古い携帯電話のメモ帳だった。これがスマホになって紙のメモ帳もいっしょに置き換えるのも時間の問題だろう。

[人に分かってもらおうという気持ち]
こんな些細な工夫をして、ポロっとでてきたものを思いつくままに書き始めて、どうしたものかと考え始めた。勝手に書いているのはいいが、読んだ人に言いたいことが伝わるのか?子供しても、オヤジが仕事で何をどうしようとしていたのかまで知りはしない。他人ではないが、理解のベースは、縁もゆかりもない人たちとたいして変わらない。何を書くにしても、後で読んで自分が分かればいいというものと、他人に読んでもらって、読んでよかったと思ってもらうのでは、内容も書き方も違う。自分だけが分かればいいと思って書いたものを、随分経ってから読んでみると、自分でも分からない点が多すぎて、落ち込むことがある。

いくら工夫したところで、興味も関心も志向も違う人に読んでもらって、分かってもらえないどころか、読むだけ時間の無駄というはなくならない。それでも、様々な人の目に触れる可能性を前提として書くのと、気にすることもなく書くのでは違う。
多少なりとも話の展開を考えるし、使う言葉も考える。それでもほとんどの人たちには、どうでもいい内容でしかないだろう。 そうは思うが、たとえ一人でも読んで、よかったと思ってくれる人がいればいいじゃないかと、半分以上開きなおって書き続けてきた。

[日本語の勉強]
書き始めて、すぐに能力のなさを痛感した。日本語の基礎知識が足りない。海外との仕事が多かったこともあって、何十年にも渡って英語は勉強してきたが、日本語の勉強?と改めて考えると、何もしたことがない。読む本にしても、仕事の関係を優先してきたからエンジニアリングや経営に関する本が主で、その延長線に経済や社会、物理や化学・・・があっても、小説というのか文学の類はほとんどない。

日本語がこれほどまでにつかみどころのない、いい意味でもよくない意味でも、どうにでも使えるが、まともに使うのが難しい言葉だったことに気が付いて、正直びっくりしている。文法というある種のパターンというのか分類に基づいた説明などしたところで、慣用的な使い方というのか例外のようなものが多すぎて、手に負えない。よくも悪くもどうにでも使える変幻自在な言語で、母国語としてならまだしも、外国語としては、日常生活で拾ってゆくしか学びようがないのではないかと思う。

[書いていってどうなるか]
書くということは、自分のすべての在り様を言葉でさらすとことに他ならない。恥の上塗りもあれば奢った自分もある。小心者がときには変形して強情っぱりになる自分がいる。浅薄な知識に無教養をさらけだして、何をしているんだという自分がいる。
あれこれ思っても、事実は事実で、しょうがない。最後は、自分は自分で、書き残したものを人が読んで、どう思おうが、その人の読み方次第で、書いた方には大した責任があるとも思えない、と開き直るしかないと思うようにしている。それでも読んでよかったと思えるものを残したい。いい歳して横町の物書きを目指して、ああでもないこうでもない、ととりとめのない生活が続いている。

何にでも言えることだが、ある状況下で、これこれこうでと考えて何かを始める。始めた何かが三日坊主で終わらずに続いて行くと、始める前と状況が違ってくる。すると、違った新しい状況下で、またこれこれこうかと考えて、次の何かを始めなければと思いたつ。書き始めて、新しい状況が生まれた。そこから考え、始めたことは別稿とする。ここで書くには、長すぎる。
2016/8/28