誰もが何かで忙しい(改版1)

確か千葉敦子の本だったと思うが、人を忙しい人と暇な人に二分した話があった。いつでもどこでもあることで、複雑な社会や人の思いを考えるとき、対象を単純なモデルにしないと、どこからどう話を始めるにしても難しい。分かりやすくするために複雑なものを二分化してかかる。
便法としては分かるが、すれば、対象の多くの部分をそぎ落とさなければならない。落としたなかに、見なければならないものが混ざっているのではないかと気になる。ましてや、それが人の考えや生き方の話になるとなおさらで、注意しないと、導きだした結論が、結論のための結論になりかねない。
なかには文字通り暇な人もいるのだろうが、仕事を通した経験からでは、忙しい人の対極にいるような暇な人はいるようでいなかった。他人がどう思おうが、人は誰もが何かで忙しい。忙しい人と暇な人に二分化してなどあり得ないのではないかと、つらつら考えていったら、違う二分化?をしていたという、なんとも落ち着かない結論になってしまった。

本来自分がしなければならないことを、他人に押し付ける口上としてよく耳にするのが、「忙しくて、そんなこと、できない」だろう。他人の業務まで抱え込んで、忙しい人たちが口にするのなら分かるが、自らの業務を忙しいからとして他人に押し付けて、ゆったり仕事をしているはずの人が、忙しいを口にする。

何を頼んでも、「忙しい」「何で私に・・・」と仕事を断る人はどこにでもいる。数社で、いったい何に忙しいのか気になって、観察したことがある。たいしたアウトプットもない。どうみても仕事という仕事をしているようにはみえない。一日中、いったい何をしているのか?
四六時中監視するわけにもゆかない。気になったときに、何かの理由をつけて、机に行って話をしながら、何をしていたのかを想像した。細かな、具体的なことは分からないが、どうもみても暇なはずの人(たち)も、なんらかのことで忙しそうに見えた。会議という名目の集まりに出ては、世間話の延長線のような話をして一日が終わってしまうエライさんたちとは違う。いつも何かで忙しくしている(ように見える)。

見えたことから、何に忙しいのか考えた。忙しいはずのない人(たち)には、仕事以外で忙しい人(たち)と仕事で忙しい人(たち)がいた。
呆れてしまうのだが、インターネットという便利なものができたおかげで、一日中、なにかにつけ社内外の知り合いとメールでチャットしているか、気になるサイトを見ている。
仕事でもメールのやり取りだし、Webで調べなければならないこともあるから、立ち入った調査でもしない限り、どこまでが仕事で、これは間違いなく個人の私的なことと、区別できないことも多い。ときにはちょっとリラックスしなければというのもあるだろうし、仕事によっては区別などしようのない性格のものもある。それでも、傍からみる限り、メールとメールの間に、ネットサーフィンの間にーそれも仕事の一環だという主張というのか、考え方もあるのだろうがーちょっと仕事をしているようなもので、会社に何をしに来ているのか分からない。仕事の外縁が大きすぎてどこに主体があるのか分からない。

仕事を終えても、似たようなことをしているのだろうから、それこそ一日中メールとネットサーフィンで終わる。それがその人たちの生活ということで、傍目には、さして意味のありそうもないことに、同情したくなるほど忙しい。仕事仕事で、いつもなにかを追い回している人たちより、よほど充実した生活をおくっていると言えないこともない。抱え込んでいる個人的な事や仕事だけでも、それも切り分けようのないほどごちゃごちゃになってしまって、手におえないところに、また仕事?よしてよって感じなのだろう。

もう一つの忙しい人たちは、インターネット上の私生活と仕事がスパゲッティのようになってしまって忙しい人たちとは違って、仕事で忙しい。どうしていいのか分からない仕事でもないはずなのが、その人たちにとっては、どうしていいのか分からないらしい。大まかの手順まで決まっている作業のはずなのに、脱線などしようがないところで、脱線して復旧しないとでもいうのか、落ちたところでごちゃごちゃやり続ける。気にしなくていいことまで気にして、勝手に自分で脱線してしまう。そこに周囲の人たちまで巻き込むから性質が悪い。したところで何がある訳ではないとことに時間をかけて、フツーにやれば時間のかけようのないことに時間をかけて、忙しい。スパゲッティの人たちとは違って、とても充実した生活とは言い難い。どう同情していいのか、悩んでしまう。持って生まれた性格?と能力?の問題と結論するのも憚れる。

暇なはずの人たちも、何かで忙しい。誰も彼もが、自分は忙しいと思っている。忙しい人と暇な人ではなく、何のために忙しいのか、なぜ忙しいのかということなのだが、考えたところで、職業を間違った以外の答えがあるとも思えない。
幸か不幸か、生産ラインで機械に使われるような、仕事がやることもやり方も決めてしまって、それに引きずられるかたちでしか働けない人たちもいる。自分で状況を判断して、仕事を考えなければならない業務には向かない。

職業人としての、あるいは社会人としての自覚の問題なのか、広義の教育の問題なのか分からない。ただ、一つだけ、はっきりしたことがあった。そのような人たちと仕事の話をしても、得られるものは、そういう人たちもいるということを知ることができるだけで、時間も労力ももったいない。こっちもいろいろ忙しい。
2016/8/28