博愛の善意はいらない(改版1)

どのような人たちが集まっているのか気になって、善意の人たちの集まりに出かけてみた。そこでの話の中心に「博愛」やそれに似たような精神を表した言葉があった。言葉の端々に自分たちがしていることが、「博愛」の精神に基づいた高潔な活動の一環なのだという自負のようなものがにじみ出ていた。その背景には、「博愛」をもって、困っている人たちを支援すれば、社会をよくできるという善意の思い込みがある。思い込みと言っていいと思うのだが、しばしば「博愛」を謳った善意を盾にした無誤謬性(?)から生まれる押し付けがましさのようなものまで感じた。「博愛」でことが済むのなら世話はないと斜視に構えるのが癖になってしまった者には、ちょっと言い過ぎかもしれないが、うっとうしい。

新興宗教の人たちの話の中にも、直接間接に「博愛」や「人類愛」がでてくる。博愛と人類愛、巷の俗人にはどっちも似たようなもので違いが分からない。ここでは「博愛」にまとめて話を進める。
善意の人たちも宗教の人たちも「博愛」の根拠(?)として、フランス革命の標語「自由、平等、『友愛』」を「自由、平等、『博愛』」にすり替えてか、単に間違って引き合いに出してくる。
標語が生まれた社会状況を多少なりとも思い浮かべれば、「友愛」はあっても「博愛」などありえようがないことくらい、想像がつきそうなものなのだが、そうでもないらしい。「博愛」と言っている人たちは、その程度の知識も持ち合わせていないのか、間違って引用しているのを分かっていて、自分(たち)の都合のいいように標語をすり替えて使っているのか分からない。

革命を阻止しよとする集団に対して命を賭して革命をしようという集団が、人類みな兄弟というような敵味方の分け隔てのない「博愛」を標語として掲げる可能性などあるわけがない。命をかけた敵味方の闘争のなかに「博愛」を持ち出すのは、人の生命を救うことを使命とする医師と医療関係の人たちだけだろう。それ以外の人たちには、革命をする側の人々の間の連帯感や友情、仲間意識や信頼を表す「友愛」はあっても「博愛」はない。
善意の人たちや宗教関係の人たちは、本質的には穏やかな人たちなのか、自他を峻別してまで社会問題の根源に切り込もうとしない。「友愛」は、自分たちとは相容れない集団から一線を画して、自分たちの連帯感や仲間意識を高揚する、自分たち−味方側に向けた言葉だからだろう、そこに「博愛」はあっても「友愛」はない。ただ「博愛」と言っていれば、まだしも、その裏付けにフランス革命の標語を持ち出すからおかしなことになる。自分たちにしっかりした核なるものがないから、なにか後ろ盾が欲しいのだろうが、持ってきたものをろくに理解していないという滑稽を演じることになる。

フランス革命の標語は当初「自由、平等、『財産』」だった(と聞いている)。フランス革命は市民革命で、民族解放のように全国民や民族が一体となって戦ったものではない。市民とは何かを考えれば標語が「財産」だったことにも納得がゆく。経済的に力をつけた平民が王侯貴族の支配(自由と平等)と搾取(財産)を廃棄すべく起こした革命だった。革命を成功させるために、財産を持たないさまざまな人たちも味方につける必要から「財産」が「友愛」に置き換えられたのだろう。

一億総中流などと言ってはいたが、いくつもの社会層に分かれていたし、分かれていた社会層間の格差が広がっている。様々な格差は経済的な格差に由来している。経済的格差は、恵まれない人たちから恵まれた人たちへの経済的利益の移転から生まれる。物やサービスが廉価であれば、それを提供する人たちの所得も廉価に応じて低く抑えられる。物やサービスの価格が下がれば、それらを買う側にすれば実質収入が増えたのと同じ効果がある。他人の低収入は間接的に自分の高収入になる。廉価な物やサービスの提供を受ける側に経済的利益が移転する。貧しい人たちがいるから、豊な人たちもいる。言い換えてもいい。貧しい人たちがいなければ、豊かな人たちもいない。

格差が拡大しているということは経済的利益の移転が大きくなっていることを示している。「博愛」とは、恵まれない社会層の人々から経済的利益の移転を受けている経済的に恵まれた人たちが、精神的な余裕から生まれた善意を正当化するときに使う言葉ではないのか。経済格差を縮小しようとすれば、経済的に恵まれた人たちから恵まれない人たちに経済的利益を移転する−社会層間の利益の取り合いになる。善意の人たちは、その取り合いが「博愛」で成り立つとでも思っているのだろうか?

「人の善意」、個人としても社会として欠かせない大事なものだと思う。思いはするのだが、善意を「博愛」という言葉で飾っている限り、本質的な社会問題の解決も軽減もできない。多少なりとも豊な社会層に所属している善意の人たちが「友愛」を使うことはないだろう。もし使ったら、誰の社会層に対する「友愛」なのか?その「友愛」が彼らと対峙し利益を取り合う社会層−彼らが思う善意の支援を必要とする社会層に向けたものになり得るのか。善意ぼけした人たちは、すり替えたフランス革命の標語「博愛」を本来の標語にある「友愛」に戻せない。

「博愛」には、人の目を社会問題の本質から逸らす作用がある。人の善意が「博愛」のバイアスで逸らされて善意の人が生まれる。その善意の人たちが善意で終わればまだしも、「博愛」をかかげた善意の人たちが問題の本質を隠蔽しかねない。善意の人たちの活動は「友愛」の人たちの社会をよくしてゆこうとする活動を妨げる。そう考えると、「博愛」の善意の人たちはいない方がいいということになるのか。
2015/5/22