拠り所(改版1)

七十年代末にメキシコシティに出張した。失業率が高く機械の据付の出張では入国できない。(副社長の話で本当かどうか?)工具も持たずに、首からカメラをさげてバケーションの格好で行った。機械を目の前にしても工具がなければ手も足もでない。大きな機械で、人手も工具も何もかも借りての作業になった。
スパナやレンチにしても言葉では通じない。ノートにポンチ絵を描いて、寸法を書き入れて渡す。何を言っても返事は「シー, セニョール」。ちょっと待っていると、頼んだものが出てくることもあれば、どこでどう違ってしまったのか、出てきたものに驚くこともある。一日中身振り手振りにポンチ絵と「シー, セニョール」だけの意思疎通。
アメリカ企業のメキシコ工場、経営陣はアメリカで教育を受けているのだろう。彼らと話をしている限りではメキシコで仕事をしている気がしなかった。大きな機械だからだろう、導入責任者は会社のNo.2だった。アルゼンチン人の優秀なマネージャで何にしても子気味のいい仕事ぶりだった。工場の作業員との間に若いメキシコ人をアシスタントマネージャのようなかたちで使っていた。
マネージャの秘書がアグネス・ラムに似ていて可愛かった。世事半分で、秘書が可愛いい人で羨ましいというようなことを言ったら、あれは使えないとにべもなかった。コンタクト先のリストを作らせたら、誰も彼もが“S”から始まっていたのには呆れたと言っていた。セニョール(成人男性)もセニョーラ(既婚女性)もセニョリータ(未婚女性)も全て“S”で始まる。肩書きが重い国、秘書にしてみれば敬称なしの名簿はありえなかったのだろう。たかがコンタクト先リストの話なのだが、言葉に仕事における能力に留まらない、全人格的に下に見る響きがあった。
アルゼンチン人のマネージャに夕食にアルゼンチンレストランに連れて行かれた。マネージャも奥さんも、容姿は日本人が思い描いているメキシコ人ではない。スペインかイタリアあたりの南欧系のヨーロッパ人にしか見えない。奥さん、手入れされた綺麗さはあっても美人からはちょっと遠かった。
アシスタントマネージャは危なっかしい英語だったが、意思疎通はなんとかなった。現場で英語が通じるのは彼だけだった。毎日昼飯はアシスタントマネージャのポンコツベンツ(ヘッドライトの部分がない)で露天のタコを食べに行った。同年輩であることもあって、かなり打ち解けた話をしていた。話のなかでマネージャの奥さんより秘書の方が美人だし可愛いいと言ったら、頭から否定された。
メキシコに行くまでは、メキシコではスペイン系とインディオの混血が進んで、混血の人たちが大勢なのだろうと思いこんでいた。街を歩いて、すぐそれが思い込みに過ぎなかったことに気付いた。純粋なインディオにしか見えない人たちに混じって、少数のいかにもヨーロッパ系の白人がいる。少数の白人が社会の上層にいて、その下に一般庶民のインディオがいる。人種によるあからさまな階層社会だった。
秘書のように日本人には美人に見えても、インディオであればメキシコの庶民の感覚では美人にならない。白人であれば、十人並みかそれを多少下回っても美人なのだろう。日本人の美的感覚もかなり欧米化している。日本人にとって美人であれば、欧米でも美人の範疇から外れはしないだろう。その欧米化、それはそれで気になるのだが、メキシコの美的感覚は、気になる範疇を超えて、侵略と支配によって奇形化したヨーロッパ化とでも呼んだ方が合っている気がした。
奇形化した美的感覚に、そりゃないだろうと思うのだが、メキシコではそれだけで収まらない。インディオの伝統文化−宗教や言葉から始まって日常生活の一切合切−が侵略者が持ち込んだものに置き換えられてしまっている。 もし、そこで土着の、インディオの人たちが民族としてのアイデンティティのようなものを主張しようとしたら、余計なお世話だろうが、何に基づいてどのように主張できるのかと考え込んでしまう。何を主張しようが宗教も含めた文化は侵略者の文化、使う言語も侵略者の言語、それでどう主張しえるのか。主張に力があるの、ないのなどというようなことでもなければ、歯がゆいなどということでもない。自分(たち)のよって立つところを抹殺した侵略者の文化と言語によってしか自分たちのありようを主張できない。ましてやその主張、侵略者の文化の影響をもろに受けている、もしかしたら受けているというより置き換えられているかもしれない。
勝手に思っていることでしかないのだが、メキシコで考えさせられたアイデンティティの喪失(失礼?)というのか、主張の難しさを思うと、日本のありようには、まだある種の、程度の差でしかないかもしれないが、救いがあるように思える。ただその救い、下手をすると簡単に踏み間違えかねない危うさと背中合わせのような気がしてならない。
何につけても日本の、日本のと、日本の文化や社会、和食から気候風土まで含めて日本がいいと明示的にか暗示的にか主張する人の話を聞くとちょっと疲れる。本当の自信があれば、自分たちの自分たちのとあえて主張することもないだろう。そんなことをしなくても、否が応でも正当に評価されるはずという自負があってしかるべきではないのか。度が過ぎれば夜郎自大に堕しかねない。
日本が日本であるのは遠く太平洋の海洋民族に始まって、中国や朝鮮との長い歴史、ヨーロッパやアメリカとの数百年かそこらの歴史のなかで形作られ、変わってきたものでしかない。どことも断絶して日本が日本であったこともないし、これからもあり得ない。
幸いにして日本では、侵略者が持ち込んだ文化や言語に頼らなくても日本の日本を主張できる。ただし相手には相手の文化や言語、社会観がある。それに敬意を払っての自己主張でなければならない。それ以上は自分たちを卑しくする。
p.s.
些細なことかもしれないが、日本の日本のと主張されている方々にお聞きしたい。日本の音楽教育をどう考えているのか。伝統芸能として残っているものもあるが、フツーの人たちがフツーに学ぶ音楽も、日常生活で接する音楽も洋楽に限られている。いまさら日本の伝統芸能−三味線や琴、琵琶や尺八、雅楽や長唄を学校教育に持ち出すのか?
2015/6/28