響きはあるが(改版1)

高名な農学部の先生のご指導の下、億の単位の金をかけて植物工場を建設した。なんとか稼働しようとしたが、先生のご高説のようにはゆかない。何をどう聞いたところで、エンジニアリングの基礎知識がまったくない能書き。後になって振り返ってみれば、中身も何もない絵空事。学者の肩書きを使った詐欺みたいなもので、ひっかかる方の知恵と知識が足りないということなのだろう。

葉物野菜の販売の話になるたびに、先生が「xxマルシェ」と言っていた。最初何を言っているのか分からなかったが、何度か聞いているうちに、マルシェがフランス語の「市場」までは想像がついた。「マルシェ」まではいいが、「xxマルシェ」の「xx」が分からない。地産地消が口癖の先生がなぜ、市場、あるいは既に日本語になっているマーケットと言わずに「マルシェ」というのかも分からなかった。

露地栽培なら植物が育つ環境を自然が与えてくれるが、植物工場では環境を人工的に用意しなければならない。用意するにはコストがかかる。そのコストが、露地栽培の葉物野菜に比べて、植物工場で栽培した野菜を高いものにする。
価格では露地栽培物に競合できない。植物工場で栽培した野菜をプロモーションしてゆくなかで、野菜をいつでも安全に……という謳い文句を思いついた。その謳い文句にあわせて、響きのいい短い言葉が欲しいということから、「マルシェ」に英語で野菜を意味する「ベジタブル」の「ベジ」をのせて「ベジマルシェ」。
無教養をさらすことになるが、聞くは一時の恥と思って訊いた。説明を聞いてやっと「xxマルシェ」の意味が分かった。どことなく新鮮な響きはあるが、それ以外には何もない。あるのは、目途の立たない植物工場に、市場価格を大きく超えた葉物野菜の生産コスト。分かったというより正直馬鹿馬鹿しかった。ここまでゆくと、巷の軽薄な宣伝文句と何も変わらない。知的レベルというより良識を疑われる。

流行には一時的なという意味がある。多くの流行が時間の経過とともに新鮮さを失って、人々の意識から薄れて行く。多くの薄れてゆく流行のなかで、人びとに認知された「もの」や「こと」が、社会の一部として組み込まれて、次の社会の構成要素の地位を得て残って行く。
何が人々の意識から薄れて行くものと、社会に組み込まれて行くものの分けているのか?何の説明にもなっていないのを承知で言うなら、今の社会が次の社会に向けて持ってゆけるもの、いきたいものだけが残る。

もっとも、次の社会に持って行くも行かないも、もともとあった「こと」や「もの」に違う名前をかぶせただけで、「こと」も「もの」も何も変わらないのも多い。実質が違えば言い表す言葉も違う。違いを明確にする必要から違う言葉を使うのが、実体は何も変わらないのに、人びとの感覚を好きなように誘導するために、ただ新鮮さを出さんがために新しい言葉が使われる。

確かに耳慣れない言葉を聞けば、多くの人がそれは何なんだと関心を示す。何もないなかで、その可能性を求めて格好を付けんがための人たちが使い始める。そこには、実がないだけに響きのよさで人の関心を求めなければならない事情がある。響きとして新鮮さが失われても、もともとあった「もの」や「こと」が時代を感じる名前とともに残ってゆく。

言葉の響きによって人々の関心をひきつけようとする浅薄な考えから始まっているから、流行を表す言葉には流行自体の定義のあいまいさに、しばし意図的に夾雑物を紛れ込ませていることも多い。何がインテリジェントなのか、どこにもインテリジェントと言える要素などないのに、ただ響きを求めて、新聞社までが主催する展示会の名前にインテリジェントなんとかと言っているのに驚いた。
そんな新聞の記事の信ぴょう性など問うこと自体ナンセンスだと思うのだが、だましだまされの業界では重宝に使える新聞社なのだろう。真顔で読んでいる人をみると、呆れるやら情けないやら、できればおつき合いしたくない。

言っている側の定義がいい加減だから、聞く側の理解が言っている側が伝えようとしていることとずれる。いい方にずれることを目論んで、言う側の小ずるさまでが見え隠れする。どこから持ってきたかのか分からないが、響きは高級フランス産。手作りでもないのに手作り。ちょっと目をこらせば、この程度のしかけられたずれはどこにでもある。それで禄を食んでいるのもいる。

何を表しているのか分からない、しばし何語だかも分からない言葉を聞くと、社会の変化から置いてきぼりをくったのかと焦る。自分では十分知っているつもりの言葉に、場違いと思うところで遭遇すると、自分の知識の至らなさとかと慌てる。
コンシェルジェはアパートの管理人か、ホテルの便利屋くらいにしか思っていなかったが、最近では不動産屋から贈答品に旅行に……何かの相談窓口担当者をそう呼ぶらしい。今や、市役所や町役場でも、巷の風俗案内も立派なコンシェルジェ。冠婚葬祭もコンシェルジェなら、交番も親しみやすい響きをということで、コンシェルジェの看板を掲げたらどうだろう。そのコンシェルジェで、交番はどこですかと訊いてみたい。
いつ政治団体が何とかコンシェルジェなどという部署を作るのかと期待して待っている。もともと自由もなければ民主もないのに長年両方使って、なんの違和感もなくなっているのだから、何がでてきても驚きゃしない。

何だかわからない言葉で、何だか分からない仕事の人たちのこととなると、何か新鮮な響きはあっても、カタカナでも何と書くのかも分からない。どことなく高級な響きはいいが、説明を聞いたところで、何を言っているのか要を得ない。分かる日本語を使ってくれないかという細やかな希望がある。歳もいって、上っ面の響きにゃ、だまされやしないと構えてしまう自分も情けないが、何だかわけも分からずに響きだけで、中身のないのはもっと情けないと思うのだが、使っている本人たちは真顔。

こうして日本語も変わってゆくのだろう。どう変わってゆくにしても、言葉は使う人たちの知的レベルを表している。言葉は変わっても、これは変わらない。
2016/9/25