相手を推し量る能力(改版1)

二人とも日本人、それも長年付き合ってきた同僚。当たり前のように、お互い共通の理解がしっかりあると思っている。ところが、そんな二人の間でも、話の行き違いが起きる。ましてやつき合いの短い海外の人とだと、もうそれは曲解じゃないのかと言いたくなるような誤解が生じることがある。

カタログ一つとっても、アメリカの企業では多人種、多文化の環境でも情報のやり取りの過程で間違いや勘違いが起きないようにと、システムとして工夫しているところが多い。日本では似たような知識と能力の人たちが仕事をしているのだが、アメリカに劣らず分かりやすい資料が、少なくとも日本人には、整っている。

それが、ヨーロッパの会社では、地域性なのか会社の独自の歴史と文化なのか分からないが、一種独特な特徴がどこにもここにもにじみ出ている。なんでこんなところでと思うところでちょっと違う製品間がいくつもある。開発された経緯や、開発時点での需要を想像できないと、なんであるのか分からない。製品群としての開発思想なしで、その都度需要に応えてきた結果としか思えない。

製造の生産性だけでなく、営業部隊とのその延長線にいる代理店の混乱を避けるためにもマイナーな製品は製造中止にしてしまえばいいものを、特定顧客の要望もあってなのか、一向に整理するような気配がない。だったら、標準品扱ではなく、特殊品にしてしまえばと思うのだが、彼らの視点では製品はどれも製品で、それを重みづけする考えがない。

引き合いを受けて、これならと思う製品を提案しながら、客の要望次第で、候補の製品をこっちからあっちと替えて商談を成立させるのが、営業マンの力量になる。その力量の基礎は、このばらばらにバケツにぶちまけたかのような、豊富過ぎる製品から何を候補としてピックアップできるかで決まる。

製品そのものがごちゃごちゃだから、客が注文の際に参照するカタログがどれほど分かりやすいかが、間違いのない製品選びの基礎になる。ところが、全ての製品を網羅したカタログがない。おおかたの製品は総合カタログに記載されているが、二年か三年に一回しか更新しないから最新情報は載っていない。個々の製品のカタログも似たようなもので、最新情報はその都度のメールのやり取り以外に知る方法がない。数十人までの町工場の仕事の仕方が、数百人になって、ヨーロッパ以外にも十ヶ国以上の支店を持つにいたっても、仲間内の顔の見える情報配信システム(システムと呼べるか?)しか考えつかない。
どの製品が客の要求に最適か?などというは、遭遇した案件から得た経験として担当営業に残る。残ったものは個人の資産で、組織にはおろか隣に座っている同僚にすら分配されない。

板状の製品を客先の機械に取り付けるボルトがもっとも簡単な製品なのだが、ボルト一本で往生することがある。たかがボルトされどボルトで、どれを選択すべきか、客と本社との間に立って、間違いのないボルト選びと手配がしばし混乱する。
DIN(ドイツ工業)規格のものでもJIS規格のボルトでも用をなすのに、なぜボルトまで客が購入しようとするかが泣かせる。「板状の製品と一緒にメーカの標準ボルトを買えば、メーカが選んでくるから間違いなく使えるボルトが入手できる」経験のある技術屋でも、板状の製品のカタログを参照にしてJIS規格のボルトを別途手配すると、使えないサイズのものを選んでしまう可能性がある。カタログの記載が分かり難いからだと文句を言っても、買ってしまったボルトは使えない。そこで、メーカの標準品を購入した方が、多少高くついても安心ということになる。

ところが、このメーカの標準ボルトにも落とし穴がある。板状の製品に取り付け穴が開いているのだが、この取り付け穴は途中まではスルーホールで、その先にメスねじが切ってある。標準ボルトの標準的な使用方法では、客の機械にスルーホールがあって、その穴からボルトを差し込んで、板状の製品のメスねじ部にボルトを締め上げるのだが、客の機械にメスねじが用意されていて、板状の製品の取り付け穴のメスねじを使わずにスルーホールとして使う方法がある。後者の取り付けでは取りつけボルトのサイズが一段細くなる。

特定の板状の製品専用の標準ボルトもあるが、多くは複数の製品に使用できる。客がカタログをみて分かったつもりで注文してきた標準ボルトを、客の機械への取り付け方法を確認せずに、スイスの本社に発注すると、機械的に処理が進んで、しばし届いた標準ボルトが太すぎて使えないという信じられないことが起きる。

製品仕様の確認のために何度もメールでやりとりしているうちに、付属品であるボルトへの注意が散漫になる。客との間では標準ボルト、スイス本社の営業担当とは、Standard bolt。お互いに同じ標準、Standardと思い込んで、違う標準ボルトとStandard boltが独り歩きする。なかには、Standardという言葉を工業規格のStandardと思って、DIN規格のボルトを見積もってくるのがいる。
ヨーロッパには、DIN規格のボルトとJIS規格のボルトが同等品であることを知っている人はほとんどいない。知っていれば、日本の客がDIN規格のボルトを購入するはずがないことくらいの想像がつく。想像がつけば、日本から言ってきたStandardはDIN規格ではなく、メーカのStandard(標準品)であることくらいの想像はつく。常識に近い知識がない人たちには想像する能力がない。

相手がメールで何を思って言ってきているのか、こっちがこういう言い方をしたら、相手がそれを、相手の背景や経緯からしてどうとらえるか……を相手の状況を推測して、しばし知識や知能レベルまで勘定にいれて、さらに相手がこっちの知識ベルをどう考えて、言ってきていると考えるかまで推察し得るかが間違いの少ない仕事の要諦となる。

個々の知識も作業も小学校高学年なら十分できる範囲のことでしかない。特別なことは何もないのだが、相手の能力や意思、しばしば驚くようなバイアスのありようまで、発信する情報も受信する情報も相手がどこまで理解し得るかを上手に想像しなければならない。この想像するという作業が個人の資質に依ることも多いが、どうもその国や地域の歴史と文化に根差したものに思えてならない。

婉曲的な言い回しやほのめかしを汲むことを前提とした日本語と日本文化が、日本人の相手を推し量った意思疎通の能力を生み出している。似たようなことを、直截な意思疎通の文化に生まれ育ったアメリカやヨーロッパの人たちに期待できるとは思えない。日本人のこの能力があって、はじめて誤解の少ない意思疎通が可能になる。この日本人の特異といってもいい能力(日本人の無形資産)が世界でいかされていることに気がついている人は少ない。

もっとも、ただ「つうかあ」の日本文化に浸りきって空気を読む術に磨きをかけているだけでは、身内の「つうかあ」までで終わる。「つうかあ」の思考に直截な意思疎通の手段が融合して、はじめて直截な意思疎通の文化の人たちとも間違いの少ない意思疎通が可能になる。
2016/10/16